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COLUMN コラム

悠久の国インドへの挑戦

2018.11.19

「悠久の国インドへの挑戦」65 インド基礎知識そのXXII:インドの財閥について(6)

藤崎 照夫

茶畑(インド)

 これまでもタタ財閥は色々と幅広いビジネスを展開してきたと書いてきましたが、その中でも製鉄業は中心となるものの一つと言えます。今日はその製鉄業への参入の歴史に触れていきたいと思います。1899年、帝国主義者として有名なカーゾンがインド総督に就任するとインド商工業政策を「育成」へ方向転換します。この総督はインド人から最も嫌われた総督でしたが経済政策ではよい面もありました。鉱区権に関する規制緩和や採鉱料引き下げなどを実施したのです。

 英国経済を知っていたJNタタは鉄鋼参入に以前から関心を持っていましたが、英国陸軍マホン少佐が発表したインド鉄鋼業に関する調査報告書を読む機会を得て、鉄鋼業参入の意欲が高まったと言われています。JNタタは1900年、渡英してインド相のハミルトンに会って製鉄所建設構想を説明し支持獲得に成功し帰国し、すぐに探鉱許可を得ました。その二年後技術パートナーを探すためにJNタタは渡米します。

 米国では「インドのモルガン」と紹介され彼のために歓迎パーティーまで催されています。鉄鋼最大手「USスティール」傘下の「アメリカン・ステイ―ル&ワイア」の経営陣とも会談しましたがなかなかよい返事は得られませんでした。当時の米国はすでに鉄鋼王カーネギーが引退し、モルガンが主導する鉄鋼大再編の時代でした。資本金14憶ドルに達していた世界最大の会社がインドの製鉄業に興味を持つはずもありませんでした。

 体よくあしらわれたJNタタでしたが諦めずに米国各地を回り、紹介につぐ紹介で地質学者のウエルドに辿り着きます。ウエルドはインドに渡って調査することを承諾し、ようやく事業化調査へ技術的な目途をつけました。JNタタは1904年に志半ばにしてこの世を去り、長男ドーラブが事業を継続した時点で現実味のある事業計画がようやく出来上がった頃でしたが問題は資金調達でした。

 製鉄業への参入は綿工場とは桁の違う事業規模であり、ボンベイの大富豪となっても自己資金で賄えるものではありませんでした。ドーラブはロンドンでの金策を一年以上続けても結果は得られない状況でした。一方、丁度このころにインドで大きな潮流の変化が起きていました。1905年10月カーゾン総督は悪名高い「ベンガル分割令」を発布しこれに対してインド人知識階級、民衆は強い反対姿勢を示しました。
 
 翌年12月の国民会議派カルカッタ大会で「英貨排斥」「スワデシ(国産品愛用)」「スワデシスワラジ(自治)」「民族教育」の四大方針が決議され、経済的にも独立機運が高まっていったのです。これを追い風に、2320万ルピーという巨額の新株による資金調達に対してインド人約8000人が応募、社債発行では事業に理解のある有力なマハラジャがこれを引き受けました。タタの自己出資は250万ルピーと一割強であるにもかかわらずインド人だけで資本、負債共に調達に成功したのです。こうして1907年にタタ製鉄が設立されました。今から約110年前になるわけです。

 製鉄所の建設は二転三転しましたが、鉄鉱石と石炭などの原料調達上の利便性から、カルカッタの西側へ遠く離れたサクチという村が選ばれました。欧米から最新設備を購入し製鉄所建設に四年を費やし1911年にようやく実際に操業を開始しました。この製鉄所の規模は当時の官営八幡製鉄所をやや下回る規模であり、世界的な規模の製鉄所でした。1914年西側第一次世界大戦が勃発すると、インドでは鉄鋼の輸入が完全に途絶え供給不足に陥りました。これがタタ製鉄を大きく飛躍させることにつながって行きますが今月はこのあたりで筆を擱きたいと思います。

藤崎 照夫

Teruo Fujisaki

PROFILE

早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。

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