株式会社リンググローバルソリューション

グループサイト

文字サイズ

  • 小
  • 中
  • 大
  • お問い合わせ・資料請求
  • TEL:03-6867-0071
  • JAPANESE
  • ENGLISH

COLUMN コラム

悠久の国インドへの挑戦

2019.02.12

「悠久の国インドへの挑戦」68 インド基礎知識そのXXV :インドの財閥について(9)

藤崎 照夫

ガンジス川の風景

 先月はビルラグループがジュート産業への進出を決めたところまで書きましたが、今月はその後のグループの事業展開等について書き進めていきたいと思います。
 ジュート産業は、インドを代表する産業であったにも拘わらず1911年の時点では英国資本がシェアー100%を占めていました。その筆頭はモルガン資本が入っているアンドリュー・ユールという当時最大の英系コングロマリットでした。こうした分野にインド資本が参入し、競争を挑むことは大変な困難を意味しました。

 ほかのマルワリ商人の多くは工業に進出せず「親英の商人」のままでした。ジュート工場をつくることは、これまでお世話になっていたイギリス企業との競合を意味し、大きなリスクを伴う行為だったのです。GDビルラは周囲の反対をよそに工業進出に乗り出します。大戦中の1916年にはGDは綿工場を他のパートナーと共同買収し、1918年には「ビルラ・ジュート・ミルズ」を設立し同年経営代理会社「ビルラ・ブラザーズ」を設立します。これがビルラ財閥の本部で後の持ち株会社となります。

 この1918年がビルラにとっての商人から財閥への転換点となります。1921年には「ジャージラオ・コットン・ミルズ」をグワリオール藩王国に設立し綿紡績に進出します。1925年、GDを会頭としたカルカッタ商業会議所が設立されボンベイと比較すると保守的だったカルカッタ財閥も1920年代には「インド商人の工業化」に向けて一気に動き始めます。先行していたGDはカルカッタ産業界の中心に位置し時代の寵児となります。

 1927年には新聞「ヒンドウスタン・タイムズ」を買収し、独立運動のメディア展開に大きな役割を果たすようになります。(この新聞は現在も有力紙として読まれており、ビルラ系企業です)翌年デリーにビルラ邸を建設し国民会議派の会合や宿泊場所として提供し独立運動を財政的に支えます。1926年に独立運動の高まりとともに、インド人経済団体として「インド商工業会議」が発足しますがこれが今なおインドを代表する経済団体である「インド商工会議所連盟」へと発展していきます。

 GDは1929年にこの「インド商工会議」の第三代目の会頭になっていますがインド資本の財界を代表し、植民地政府にも接するようになります。英王立労働委員会メンバー、ジュネーブ国際労働会議インド代表、インド財政委員会メンバー、インド商業会議所会頭、インド商工業会議所連盟会頭など立派な肩書が増えていきます。1931年9月には「第二回英印円卓会議」が行われますが、GDビルラは産業界を代表してこの会議に出席しています。

 1930年代になると世界恐慌の余波がインドにも押し寄せます。デフレが始まりジュート、綿、皮革、砂糖などの価格は暴落し輸出は停滞し、1931年から33年に金は流出超過となり、インドの農業恐慌は深刻化します。然しながらこのような環境下でもビルラは多くの製糖会社を設立し、製糸業や保険業にも進出し1939年には「テキスタイル・マシナリー」をカルカッタに設立し機械工業に初めて進出します。

 第二次世界大戦のさなかでもGDのビジネス意欲は衰えることはありませんでした。1943年にはユナイテッド商業銀行を設立したほか自動車産業への参入を検討し始めます。ビルラ財閥は1942年、インド資本最初の自動車会社「ヒンドウスタン・モーターズ」をバローダ藩王国に設立し1946年にカルカッタに工場を建設します。GDが会長となり弟のBMビルラが社長となります。この会社の特徴はゴエンカ、ㇻルバイなど当時の有力財閥の会長が取締役として顔を揃えていたことです。

 1944年に競合となるワルチャンド財閥のプレミア・オートモビルが設立され1945年には「自動車産業を重要産業として位置付ける」との政府方針まで出されてインド自動車産業をめぐる環境は一気に変わっていきます。更にビルラは1945年に化学、茶、石炭、リンネルと立て続けに参入し、戦後の独立を見据えながら多角化を進めていきます。今月はこの辺で擱筆し来月はビルラ邸で起きたインド独立運動の父ガンジーの暗殺事件から話を進めていきたいと考えています。

藤崎 照夫

Teruo Fujisaki

PROFILE

早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。

このコラムニストの記事一覧に戻る

コラムトップに戻る