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COLUMN コラム

悠久の国インドへの挑戦

2019.03.11

「悠久の国インドへの挑戦」69 インド基礎知識そのXXVI:インドの財閥について(10)

藤崎 照夫

ゴールデン テンプル

 今月はデリーにあるビルラ邸で起きたラジブ・ガンディーの暗殺事件から話を始めたいと思います。1948年1月30日午後、ガンディーがヒンドウー教右派の青年であるゴードセーによって銃弾を浴び暗殺されました。ビルラ邸はデリーの官庁街に面しておりその正面から向かって右端にあった離れをガンディーは定宿としていましたが、ここで事件は発生しました。ガンディーは、最後まで印パ分離独立に反対し続け、独立後も宗教暴動を鎮静化するための融和メッセージを発信していましたが、これがヒンドウー教右派からは疎ましく思われていたのです。

 事件当日、GDビルラは朝早く故郷ピラニに出かけており邸宅にはいませんでした。翌朝自家用機でデリーに戻った時には、ビルラ邸は混乱した数千の人に囲まれている状態だったといわれています。ガンディーの葬儀が終わるとやがて市民の悲しみは怒りへと変わり、警備の責任問題に発展しその矛先はビルラにも向けられていきます。暗殺の10日前の夕方にもほとんど同じ場所で手製の爆弾が外から投げ入れられその爆発をガンディーは間一髪で逃れるという事件が起きています。その後警備人数だけは増やしていましたが万全と言えるものではありませんでした。

 ガンディーを支持していた社会活動家らは、そろって政府やビルラの怠慢を非難しました。またGDビルラの兄JKビルラ(事業から引退し慈善活動を行っていた)がヒンドウー教過激派に対して長年資金援助を行っていたことも判明し問題視されます。その後の過激派一斉逮捕では、逮捕者の中にビルラ家と親しくしていたマルワリ起業家もいたことから「陰謀ではないか」との不信感を持つ者さえいたようです。GDビルラの過失とともにガンディーとの30年以上の付き合いは終わりを告げたのです。

 話をビルラの事業展開に戻したいと思います。GDビルラは長らく金属産業への参入意向があり、計画を練り始めていました。先ず銑鉄生産からはじめて、鋼材生産まで拡張するというものでした。1951年にビルラの計画に興味を示した西ベンガル州首相は建設場所としてドウルガプールを勧めてきます。ドウルガプールはコークス炉やガス生産工場を建設する計画がありそれを補完するものでした。鉄鋼業への参入は工業ライセンスが必要でしたが政府の態度は釈然としませんでした。商工相はビルラを推したが計画相は参入案には反対するという態度で紆余曲折を経たのち最終的には1954年に計画委員会で却下されます。

 ネルー首相は議会でビルラの計画を却下し「鉄鋼業における新規参入は国営に限る」という1948年産業政策決議の解釈を確認し、ビルラへの認可は反故になったのです。
 GDビルラは鉄鋼での参入に失敗しますが金属産業への参入に関しては執念を持っていました。インドはアルミの原料となるボーキサイトや石炭埋蔵量が豊富でした。GDはアルミ事業に関心を持つようになり資源探査と調査を実施します。鉄鋼での認可取得の失敗を教訓として生かし、閣僚の意見収集と根回しを周到に行ってから事業化調査に臨みます。

 1957年、GDは技術供与の相手を模索するために渡米し世界銀行総裁ジョージ・ウッズの紹介によりエドガー・カイザーと交渉を行い合弁の合意を得ることとなります。エドガー・カイザーは造船、自動車、アルミ事業を持つコングロマリットのカイザー・コーポレーションの社長です。こうして1958年、ビルラは中核事業会社となる「ヒンダルコ」を設立しアルミ事業に参入を図ります。工場建設に関してはウッタル・プラデッシュ州の有力者(後の州首相)のCBグプタにリハンド・ダム周辺での建設を勧められそれに同意します。
 
 このヒンダルコについては前述の鉄鋼の投資認可においてタタ財閥には事業拡張の認可を出しながらビルラ財閥には参入が許されないという事態に負い目を感じていたネルー首相の計らいもあったと言われています。ヒンダルコは年産2万トン級の工場を2億5千万ルピーの予算をかけて期間18ケ月という短期間で建設し1962年に稼働を開始し現在もなおグループの中核の事業会社となっています。来月はその後のビルラ財閥の活動について触れていきたいと思います。

藤崎 照夫

Teruo Fujisaki

PROFILE

早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。

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