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COLUMN コラム

悠久の国インドへの挑戦

2019.05.07

「悠久の国インドへの挑戦」71 インド基礎知識そのXXVIII :インドの財閥について(12)

藤崎 照夫

タージ・マハル

 これまで5回に亘りインド財閥大手で歴史のあるビルラグループについて述べてきましたが今回がビルラ財閥についての最終回となります。四代目会長BK,五代目会長アデテイアに続いて六代目会長としてクマール・マンガラム・ビルラ(以下クマールと略称1967年生まれ)が継承しました。クマールは「曾祖父、祖父、父の三代が同時に経営に携わる」という世間一般のビジネスではありえない光景を目の当たりにして育ちました。クマールが父達から聞かされた言葉は「独立した人であるように」「自分で決定して責任を持つように」でした。

 そのための訓練を早くも学生時代から受け、15歳の時に初めて父アデテイアに連れられて社内の会議を見学し、会議の後に父に質問したりしていたと言われています。その後クマールはロンドンでMBAを取得し父の事業に参加しグラシム・インダストリ―のセメント部門とインド・ガルフの事業を任されるようになります。しかし事業に参画してまもなく、父アデテイアの急死に直面します。経験を積む前に曾祖父GDの事業の大部分を29歳のクマールが継承し、大財閥の会長に就任することになりました。

 多くの政財界人らが参列する葬式の最中クマールは人材コンサルタントのタルン・シュートに向かって「最初にほこりは落とさなければいけない」と語ったと言います。
 29歳の若さで当時800億ルピーの資産を持つ財閥のすべての決定と責任を負うことが求められたのです。一方会社内では父アデテイアへの思い出に浸る多くの幹部がいて、それらの幹部達は皆クマールが幼少のころから知っており、クマールはどのように接していいか分からなかったといいます。

 時代は経済開放真っ只中にあり、クマールはその意味を理解しており「変革が必要だ」と感じ、疑問は「いつそれをやるか」でした。クマールが継いだ時、ビルラ財閥の雇用制度は「子宮から墓場まで」という古めかしいものでした。ぬるま湯に浸りきった高級幹部に重要ポストを占められ、若い優秀な人材が活躍できる場がなかったのです。彼は一年かけて各地の工場を回り従業員から意見を聞きました。その後30歳に満たない若さでありながら組織改革に着手したのです。

 海外から優秀な人材を採用し彼らが活躍できる新しいポストを作りました。また「60歳定年制」を導入し、350人のリストラを断行しました。これは財閥全体にショックをもたらしましたが管理職の平均年齢が54歳から40歳になったそうです。また中国との安売り競争で勝てないと思えば、古い繊維工場をためらいなく閉めていきました。クマールは父アデテイアから継承したビルラの企業集団を新たに「アデテイア・ビクラム(略称AV)・ビルラ・グループ」と名付け企業イメージを刷新しました。

 ビルラの他の系統グループが時代の変化に取り残され古いビルラのまま没落していくなかでクマール率いるAVグループだけが躍進を続けています。彼は「私は産業界のリーダーではない。アントレプレナーだ」と表現していますが言葉通りに「新たなビルラ」を構築し、会長就任時のグループ売上高15億ドルから15年で300憶ドルを超えるまでに成長させています。これでビルラ財閥の話は終えさせていただき来月から新興財閥として大きく躍進を遂げたリライアンス財閥の話に移りたいと思います。

藤崎 照夫

Teruo Fujisaki

PROFILE

早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。

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