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COLUMN コラム

悠久の国インドへの挑戦

2019.06.10

「悠久の国インドへの挑戦」72 インド基礎知識そのXXIX:インドの財閥について(13)

藤崎 照夫

ジョードプル ブルーシティ

 これまで数回にわたりインドの財閥の中でも古い歴史を持つ大手の財閥であるタタ・グループとビルラ・グループについて述べてきましたが、これからこの二つの巨大財閥を凌駕するほどの躍進を遂げている新興財閥のリライアンス財閥について話を進めていきたいと思います。先ず最初はこの財閥の歴史と創業者について触れていきます。創業者はその名前をディルバイ・ヒラチャンド・アンバニ(1932~2003)といいます。

 彼はインド西部グジャラート地方郊外の寒村で貧しい村の教師の息子として1932年に生まれます。兄、弟、二人の姉の五人兄弟でした。アンバニ家のコミュニティーはグジュラティーであり、カーストはバニャ(商人)でした。教師の父の収入は少なかったため、ディルバイは子供の頃から「とにかく少しでも稼いできなさい」といつも叱られていました。仕方なくピーナツ油を卸売業者から手に入れ路上で売ったり、週末には村の市場で屋台を出してバジア(玉ねぎやイモのフライ)を売ることもあったといいます。

 1945年、ディルバイは高校へ進学します。貧しい家庭であったので授業料は無料だったそうです。彼はこの高校時代にインド独立を迎えることになります。入学した高校はすでに独立機運が高まっており彼も強く関心を示していました。1947年、印パ分離独立に伴い、インド独立時点で600近くまでになっていた藩王国の多くはインド側へ帰属していました。グジャラート地方では、200以上の藩王国が存在しましたがその一つシュナガード藩王国では、住民の八割がヒンドウー教徒であったにも関わらず藩主はムスリムでした。

 藩王は「パキスタンへの帰属を表明」し「不要な外出の禁止、集会の禁止、インド国旗掲揚の禁止」などを命じ、事実上戒厳令の状態にありました。住民の多くは不満を持ちながらこの事態を見守っていましたが、ディルバイはこの戒厳令を無視しました。ジュナガードの学生を全て学校のグランドに集めて、ファンファーレを鳴らし、インド国旗掲揚を先導しました。そこで彼は人生初の短い演説を行ったといいます。その後住民運動が繰り返され、ムスリム藩王はパキスタンに夜逃げして騒動は幕を引きました。
 
 ディルバイは後に「この時代が最もエキサイティングな時代だった」と振り返っています。彼は大学受験後、合格発表がまだ出る前に父に呼ばれて故郷に戻り、父から「健康状態が悪化し、もう働いて家族を養うことが出来ない」ことを知さられます。さらに、「英領イエメンのアデンに出稼ぎに出ている兄にディルバイの就職をすでに斡旋してもらった」と聞かされます。彼に選択肢はなく翌朝にパスポートを取りにラジコートに向かい更にボンベイに向かいました。三日後にはボンベイ港からアデン行きの船に乗りますが、その船上、地元紙で自分の大学合格を知ります。

 16歳のディルバイは1949年就職のため兄のいるアデンに渡りますがアラブ地方の貿易港や東アフリカのマーケットで商業経験を積むのは、彼の属するグジュラティーにとっては伝統的な習わしでした。二つ年上の兄ラムニクバイ(1930~)が既にアデンの仏系商社「アー・ベス」で働いていました。この企業はアントニー・ベスというフランス人が創業し、その二人の息子が経営していました。第二次世界大戦中に事業を拡大し紅海エリアでは最大の商社になっていました。

 一万人の授業員のうち、三千人のグジュラテイーが占め事務職、営業職、管理職として働いていました。アデンに着いたディルバイは兄の斡旋でこの会社に就職します。
 兄は自動車販売部門に勤務していましたが、ディルバイはシェル石油製品の部門の事務として勤務することになりました。彼はここで貿易のイロハ、公海取引(脱税テクニック)、マーケッティング、流通、為替、資金管理などを学ぶことになります。
 当時は英石油大手BPが製油所を建設中でディルバイは同施設を見学しその後の夢を膨らませたといいます。  

 

藤崎 照夫

Teruo Fujisaki

PROFILE

早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。

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