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COLUMN コラム

悠久の国インドへの挑戦

2019.09.09

「悠久の国インドへの挑戦」75 インド基礎知識そのXXX:インドの財閥について(15)

藤崎 照夫

タージ・マハル

 今月も引き続きリライアンスグループについて話を進めていきたいと思います。
 高級衣料品製造で成功したディルバイは1973年、旗艦企業となる「リライアンス・インダストリーズ」を設立しポリエステル紡績に参入します。最新設備を導入し、品質に拘りました。例えばこの翌年にインド全土にある24の繊維工場を調査した世界銀行の調査団は「インドではリライアンスが唯一優れた工場である」と報告しています。

 さらに、ポリエステル・フィラメント糸の大工場を建設するためにボンベイ郊外のパタルガンガで新工場の建設を開始します。この工場建設は大きな飛躍がかかった重要なプロジェクトでした。長男ムケッシュは米スタンフォード大学へMBA取得に留学していましたが、プロジェクトの遅れを気にしたディルバイはムケッシュを帰国させそのまま入社させました。ムケッシュは期待以上の働きを見せ、難航する工場建設計画を18ケ月という短期間で成し遂げその手腕は大きく評価されました。

 このパタルガンガ工場では米デュポンの技術援助を得ることに成功しましたが、これが
 繊維メーカーから化学メーカーへの転換点となります。この後は化学分野での事業拡大が続き、1985年にはパタルガンガ工場を拡張し、1986年に高純度テレフタル酸(PTA)製造、1987年には直鎖アルキルベンゼン(LAB)製造を、1988年にはポリエステル原料となるパラキシレン製造を開始し、化学メーカーとして急成長を遂げていきます。

 1982年から83年にかけてインド株式市場を大きく揺るがすリライアンス株式仕手戦が勃発しますが話が複雑なのでここでは割愛したいと思います。ディルバイは1989年優良企業買収の大きな賭けに出ます。対象となった建設・エンジニアリング最大手『ラーセン&トゥブロ』は技術力を持った優良企業でしたが海運やセメントへの対応多角化で失敗するなど業績が低迷していました。すでに創業者は引退しておりインド生命保険公社(LIC)を始めとした政府系金融機関が主要株主となっていました。

 当時のインドでは同社のように大きい民間企業で、支配株主のいない企業は他になく、しかも中核企業は優良であるということでディルバイは目をつけていたのです。彼は突如として市場でラーセン&トゥブロの株式を買い集め、政府を除いて筆頭株主になることに成功しました。彼は自ら同社の会長となり、長男ムケッシュを社長に就任させました。しかし、これに反発した政府は買収に関して調査し、経営幹部を辞任するように勧告し翌年ディルバイとムケッシュは辞任に追い込まれました。

 マスコミには「ハイジャック」と叩かれ、さすがにこの大型買収は失敗しましたが、リライアンスの急成長ぶりを見せつけることになりました。この1989年にはタタ、ビルラに次いで売上高で第三位の財閥になっていたのです。1980年の企業別売上高ランキングでは100位以下に過ぎなかったことを考えると、いかに驚異的な成長であったが分かるのでないかと思います。

 1991年、経済開放後はさらに生産拡大に動きます。同年にハジラ石油コンプレックスの建設を開始します。1992年にはさらなる設備拡大のために、GDR(国際預託証書)で欧州市場にも上場しますがこれはインド企業として初めての事でした。米エンロンとの合弁でジャムナガル製油所を建設し、サプライチェーンの川上に進出し垂直統合を目指します。資金調達を繰り返しては設備投資を行い、1997年にハジラ石油化学コンプレックスを完成させます。

 2002年5月には、民営化するインド石油公社(IPCL)の株式26%を政府から引き受け経営権を取得します。さらに市場でも追加取得し持ち株比率を一気に50%近くまで引き上げ、同業二位の同社を傘下に収めることに成功します。かつこの買収を見届けるかのようにディルバイの最期が訪れます。来月は彼の死後のリライアンスのついてまとめこの財閥の話を締めくくりたいと考えています。

藤崎 照夫

Teruo Fujisaki

PROFILE

早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。

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