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COLUMN コラム

駐在員のための  中国ビジネス ー光と影ー

2017.12.18

駐在員のための「中国ビジネス―光と影―」(第54回)中国ビジネス余話

菅野 真一郎

桂林の夜

(5)閑話休題「上海日本人学校誕生と寄付集め」

 今回は閑話休題、私の2度にわたる上海駐在時代に関わった、仕事とは直接関係ない事項についてご報告したいと思います。題して「上海日本人学校誕生と寄付集め」。
 
 学童年齢の子供を持つ海外駐在員にとって、赴任地に日本人学校(あるいは日本人補習校)があるかどうかは、家族帯同赴任か単身赴任かの大事な判断材料になります。同時に企業の進出立地を決めるキーポイントの一つでもあります。

 海外子女教育振興財団などの関連統計によれば全世界の日本人学校数は89校、日本人補習校は212校、合計301校で、日本人学校に通う児童数は2万965名、日本人補習校に通う児童数は2万4,156名、合計4万5,121名の規模に達しており、日本経済のグローバル化伸展の一面を物語っております。

 とりわけ、日本企業の進出が目覚しい中国には、北京、上海、大連、広州、天津、青島、蘇州、杭州、深圳、香港の10ヶ所に日本人学校があります。
 中国の日本人学校の在校生は、2016年5,689名です。なかでも上海は、虹橋校(1987年開校)、浦東校(2006年開校)、高等部(2011年開校―世界初)の3校合わせて児童数2,423名、教員数157名、一都市としては世界最大のマンモス日本人学校になっております。

(上海日本人学校在校生のピークは2013年3,175名でしたが、2012年の日本政府による尖閣諸島国有化以来日中関係が冷え込み、上海総領事館管轄の日本人駐在員数も2012年78,862人をピークとして6万2,000人台まで減少し、日本人学校在校生も減少しています)。

 上海に日本人補習校が開設されたのは1975年(昭和50年)のこと、生徒数7名、派遣教員1名でスタートしました。日本人学校の開校が1987年(昭和62年)、生徒数61名、派遣教員5名でした。従って昨年2016年は上海日本人学校30周年の記念すべき年でした。

 私は二度、合わせて6年上海に駐在し、いずれも学校運営委員会の一員として上海日本人学校のお手伝いをさせて頂きました。一度目は補習校から日本人学校に切り替わるときの運営資金の調達、二度目は生徒数が増え間借り校舎では手狭になり、プールや体育館、運動場を備えた自前の校舎を作ることになり、本格的校舎を作るための建設資金の調達でした。

 最初は1984年上海首席駐在員として、家内と小学2年の息子、生まれて間もない娘の四人で赴任しました。息子は上海日本人補習校18人目の生徒、因みに私は78人目の上海日本人駐在員でした。補習校の派遣教員は1人のため、派遣教員の奥さん、駐在員の奥さん、復旦大学の日本人留学生などを“教師”として集めました。教室と教師が足りないため、低学年は午前中補習校、午後は現地校(長楽路小学校)、高学年はその逆という生活です。

 本来補習校は欧米の英語圏で現地校に通学する日本人生徒が母国語の日本語を忘れないように、毎週末に開く例が多いのですが、中国の場合は中国語を習得する必要性があまりないのと、現地校の授業内容が社会主義的傾向が強いため現地校通学の比重が高くなることに対する抵抗感もあって、補習校でも上海では毎日開いておりました。現地校の勉強は半日ずつですからどうしても教科書はとびとびになり勝ちで、子供達にとっては言葉がわかりにくく、内容もわかりにくいので、相当のストレスになっていたことは間違いありません。

 また当時の補習校は日本総領事公邸のあるアパートの一部を間借りしていたため運動場が無い状態でした。ある時近く赴任してくる駐在員の奥さんが体育教師の資格があるという情報が入り、早速日本総領事館の芝生の庭を毎週1回借りて“あしたばクラブ”という運動クラブを創設し体育授業のまね事を始めるなど、父兄皆が力を合わせ智恵を絞って教育環境の改善に取り組んでいました。

 赴任の翌年本社人事部の現地視察があり、一緒に現地校を見学しました。正式の見学申し込みをすると大げさになり承諾まで時間もかかるので、外からざっと学校の様子をみることにしました。一階にある息子の教室を外からつま先立ちして背伸びして覗き込んだ時のことです。息子とK君(日本の大手商社の所長の息子)の2人が背筋を伸ばしてじっと前方の黒板を見つめています。50人程の中国人児童は皆机に向かって何やら作業をしている様子でした。

 その夜家で息子に「2人は何で黒板だけを見ていたの」と尋ねたところ、「図画工作の時間、いつも日本人は教材をもらえないので何もやることがない」と言うではありませんか。大人の給料ほどの授業料(駐在員事務所に派遣されてきていた中国銀行職員の月給78元、授業料は外貨兌換券で50元でした)を納めているのに図画工作の教材が配られないとは。当時物不足の中国は外人に教材を配るのは勿体ないということだったのかも知れません。当時の現地校小学2年の国語か社会の教科書第1章は「日本鬼子軍」と題して、日本刀を振りかざして中国人に切りつける日本軍人の手書きの挿絵が描かれていました。息子は補習校で“亀”と教えられ、現地校で“龟”(中国語の簡体字)と訂正され、頭が混乱し始めていた時でもありました。

 毎日ストレスがかかる子供達の状況を知り、私はすぐに現地校をやめさせ、父母会で日本人学校設立を呼びかけました。文部省の日本人学校への格上げ基準の30人は目前だったこともあり、上海総領事のご理解とご支援を得て、学校運営委員全員が力を合わせて取り組みました。私は、当面必要な2,000万円の運営資金募金の仕事に携わりました。当時は進出企業も少なく、2,000万円といえどもすぐには集まらず、学校運営委員会が邦銀から2,000万円を借金して開校に間に合わせました。校舎は以前中国企業が使っていた空家の事務所棟を借りることができました。

 1987年4月22日、生徒61名で上海日本人学校の第一回入学式が挙行されました。その年5月の帰任が決まっていた私は、家族を3月に帰国させておりましたが、学校運営委員として晴れの入学式に参列することが出来ました。補習校の運動会の準備で、スターターのピストルは運動具店で買えたのですが、火薬の弾は花火屋さん、行ってみると「学校の証明書がないと売れない」、事務所の運転手が翌週自分の小学校の恩師に頼んで証明書を出してもらってやっと買い求めることができたこと、玉入れ競争の竹かごを買うのに、毎週日曜日市内を探し回り、3週間目に偶然見つけることができて、運動会に間に合ったことなどが走馬灯のように頭をよぎりました。多くの父兄が目頭を押さえていました。

(この項つづく)

菅野 真一郎

Shinichirou Kanno

PROFILE

1966年日本興業銀行入行、1984年同行上海駐在員事務所首席駐在員、日中投資促進機構設立に携わり同機構初代事務局次長、日本興業銀行初代上海支店長、同行取締役中国委員会委員長、日中投資促進機構理事事務局長を経て、2002年―2012年みずほコーポレート銀行顧問(中国担当)、2012年4月より東京国際大学客員教授(「現代中国ビジネス事情」)。現在まで30年間、主として日本企業の中国進出サポート、中国ビジネスに係るトラブル処理サポートの仕事に携わってきた。

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