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COLUMN コラム

世界最北の日本レストラン

2019.08.19

【世界最北の日本レストランーフィンランドで苦闘した あるビジネスマンの物語(109)】北欧の移民問題

長井 一俊

忍び寄る秋

 北欧の8月は早や秋風が吹き始め、コケマキ河畔の緑に広葉樹の黄色が混じり込む。夏季休暇が終わり、人々の顔にも祭りの後の寂しさと、財布が空になった心細さがうかがえる。老後の心配が無いので、貯蓄はせず、夏を目いっぱい楽しんでしまったからだ。

 そんなある日の午後、常連客の一人が初老の東洋人女性を連れて来店した。彼女は自ら『ベトナムから来ました。クェンです』と英語で名乗った。フィンランドが十数年前に受け入れた難民の一人であった。

秋を知らせるイワシ雲

 彼女はベトナム戦争で陥落したサイゴンに住む華人(中國人2世)であったが、両親と共にオーストラリアに逃れた。南ベトナムの多くの市民が、陸路で国境を越えて隣国に逃がれたり、船で海外に渡った。その難民の数は優に100万人を越した。海路で脱出を選んだ人たちの多くが、餓死、転覆死、海賊に遭遇した。

 彼女の場合はいったんオーストラリアに逃がれたが、その後、国連高等弁務官の仲介でフィンランドに難民として迎えられた。私は彼女に『それでは貴女はボートピープルだったのですね?』と何気なく聞いてみてしまった。すると彼女の顔が一瞬にして曇った。その訳を咄嗟に判断する事が出来なかった私は『オーストラリアに向かった船上での生活はどんなものでしたか?』と重ねた。すると彼女は『今は天国です』と言っただけで、それ以上の答えは返ってこなかった。

森にも秋の気配

 察するに、当時彼女は十代の乙女であったはずだ。目的地だった東南アジアの国々で入国を拒まれ、何百日に亘る船上生活の末にオーストラリアに行き着いた。満杯の船上での生活は文字どおり、筆舌に尽くしがたい過酷なものであったのだろう。「ボートピープル」は、広島・長崎での被爆者が、長くその経験を話したがらず、知られたくなかったのと同様であった。半世紀たった今も、クエンさんの心の傷は癒されてはいなかったのだ。

 私が彼女に『フィンランドに来てからは、悩みはありませんか?』ときくと、2つの答えが返ってきた。一つには、「平和だった戦前のベトナムを思いだし、ホームシックに成る事があります」二つ目は、「私達の子や孫たちは、苦しみの時代を知らず、『お小遣いが少ない?自分だけの車が欲しい』と不平を言う事です」であった。

 フィンランドはベルリンの壁が崩壊する1989年までソ連の傘下におかれていた為、難民の流入はほとんど無かった。

コケマキ河畔にも秋の訪れ

 又、暖かい南の国から来る難民には、フィンランドは寒くて自分たちが永住する国では無いと思われていた。

 現在、フランス、イタリア、イギリスなどの大都市では、アフリカからの移民が急増して、その対策に悩まされている。人道的には受け入れを表明するものの、治安の悪化を市民は恐れている。

 隣国のスゥエーデンでは、60年程前に起きた中東戦争以来、多数の移民を受け入れてきた。彼らの殆どはイスラムを信仰し、教会をつくり、イスラム居住区が生まれた。その結果、首都ストックホルムでは、キリスト教徒であるスゥエーデン人がその地区から逃げ出した。古来イスラム人は清潔な生活を送っていたと言われているが、どういう訳かイスラム移民の居住地区の環境は悪化し、警察も入りたがらない治安の悪い一角が出来上がってしまった。幸いにして、フィンランドでは移民受け入れの歴史が浅く、その人数が少ないため、国や市は技能や教育を十分に施すことによって、格差は顕在化せず、移民問題は起こっていない。

 今でこそ、移民に悩まされるスゥエーデンには、あまり知られていない過去があった。維新の直前には英、米、仏、露、同様に植民地獲得競争をしていた一国である。日本にその触手を最初に伸ばそうとしたのはスゥエーデンであった。国王の命によりワーレンベルグ(北欧最大財閥の創始者)は日本を目指したが、その途中のフィリピンで疫病に感染して、母国に戻らざるをえなかった。LGSと関係が深い㈱ガデリウスはそのワーレンベルグ財閥の商社部門として、長くその一翼を担っていた。

 移民とは別に、移住と言う言葉がある。例えば、メイフラワー号に乗ってアメリカ大陸に到着したピルグリム・ファザー(102人)は「移民」ではなく「移住」であった。その時には、アメリカという国家が存在していなかったからだ。「移民」は独立戦争で英国に勝った1783年以後に入国した人達である。それでは、アフリカから強制的につれてこられた奴隷はどちらに属するのか。答えは、南北戦争が終結する直前の1862年に、リンカーン大統領が奴隷解放宣言をするまでは人権を持たなかった故に、どちらにも属していなかった。 
 私はフィンランドに長く住んではいるものの、母国日本のパスポートを所持し、現地の就業ビザを所有しているので、長期出張滞在者に分類される。税金も納め、雇用もしているので、善き外国人である。ポリの人達からは、日本人である事を羨ましく思われる事はあっても、蔑視や偏見をもたれた事など一度も無い。クエンさんに会って自分が日本人に生まれた事を、「非常に幸運である」とつくずく思うようになった。

 ただ、世界中で日本人が歓迎されているわけではない。日本の過激派がイスラエルのテルアビブ空港で乱射事件をおこした後しばらくは、多くの飛行場で中東に行く日本人だけは厳しい荷物検査を受けなければない時代もあった。

 私はビジネスマンを辞めて飲食店の経営者に移ってからは、飛行機もビジネスクラスからエコノミーに変えた。機内食の苦手な私にとって、長時間のフライトを「地獄だ」と思っていたが、クエンさんと会ってからは、「天国です」と思うようになった。

長井 一俊

Kazutoshi Nagai

PROFILE

慶応義塾大学法学部政治学科卒。米国留学後、船による半年間世界一周の旅を経験。カデリウス株式会社・ストックホルム本社に勤務。帰国後、企画会社・株式会社JPAを設立し、世界初の商業用ロボット(ミスター・ランダム)、清酒若貴、ノートPC用キャリングケース(ダイナバッグ)等、数々のヒット商品を企画・開発。バブル経済崩壊を機にフィンランドに会社の拠点を移し、電子部品、皮革等の輸出入を行う。趣味の日本料理を生かして、世界最北の寿司店を開業。

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