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COLUMN コラム

チャオプラヤー川に吹く風

2017.12.11

【チャオプラヤー川に吹く風(56)】タイ国の教育事情 その5~ムスリムへのイスラム教育(前編)

齋藤 志緒理

タイ国内のモスク内部(Pixabayの写真素材より)

 タイ国の宗教別人口構成を見ると、全人口の95%近くが仏教徒であり、イスラム教徒が4%弱、キリスト教徒とその他が残りの1%程度という割合です。仏教徒が圧倒的多数を占めるものの、仏教は「国教」ではなく、国民の信教の自由が保障されています。今号と次号では、こうした環境下、この国で「イスラム教育」がどのように展開されてきたのかに注目したいと思います。

●タイ国の宗教教育の枠組み

 イスラム教育について述べる前に、その前提として、タイにおける「宗教」と「教育」の関係について、触れておきます。

 冒頭で述べた通り、タイ国に「国教」はありませんが、「公認宗教」は存在し、仏教・イスラム教・キリスト教(カトリックとプロテスタント)・ヒンドゥー教・シーク教の特定団体のみが、政府によって保護・監督される宗教団体とされています。国家が公認したこれらの宗教団体には、国税が投入され、宗教施設の新設や修理、布教者の育成、巡礼のための補助費など、様々な形で支援が与えられます。また、公認宗教は公立学校における宗教教育科目の1つとして認定もされます。ただ、宗教人口が極めて小さいキリスト教、ヒンドゥー教、シーク教の実施状況については、わからない点が多く、学校用教科書も作成されていません。

 一般的なタイの公立学校では、教室内に国王の写真と共に仏像と国旗が飾られることも珍しくなく、朝礼の際に「仏・法・僧」の三宝に帰依する言葉を唱えるなど、仏教の影響が浸透しています。寺の行事に学校関係者と生徒が参加することもあります。当「タイ国の教育事情」シリーズのその2「近代教育の成立」でも記したように、タイの教育史上、僧侶や寺院は大きな役割を果たしましたが、現在でも、僧侶が学校を訪れて仏教の授業を担当したり、教員が生徒に夏休み期間の一時出家を勧めたりすることがあります。

(矢野秀武「タイにおける宗教教育―宗教の公共性をめぐる多様な試み」『現代宗教』,2007年. p164-175)

 すなわち「宗教」は、そもそも、タイ国の公教育の域外にはないということをおさえておく必要があります。

●タイ国におけるイスラム教徒

 イスラム教徒は、<1>南部在住のマレー系ムスリム <2>北部の中国系ムスリム <3>首都圏地域のムスリム(アラブ系、ペルシャ系、インド系、南部タイから移住したマレー系など民族的には多様)に大別されます。この中で、最大勢力を誇るのは<1>の南部タイのマレー系ムスリムです。

 「南部タイ」は、教育行政区分としては全14県ありますが、イスラム教徒が集住しているのは「深南部」あるいは「南部国境4県」と称される「サトゥーン、パッタニー、ヤラー、ナラティワート」です。全国のムスリムの過半数がこの4県に居住し、各県内のムスリムの人口比率は7割以上に及びます。

 かつてこの地域には、マレー系の地方都市国家群がありましたが、1909年の対英条約締結の際、クランタン、トレンガヌ等の支配権が英国に譲渡され、現在のマレーシア領に組み入れられたため、マレー文化圏が国境で分断されることになったのです。
(鈴木康郎「南部タイの国公立小学校・中等学校におけるイスラム教育の試み」『比較教育学研究第25号』,1999年. p98-99)

 タイの南部国境4県では、これまで幾度となく分離独立運動が起こりました。いわば、この国の国民統合上の火種を抱えてきた地域です。

 タイの現憲法では、国王は仏教徒であるべしと規定されています。歴史的にも、スコータイ王朝以来の歴代の王は仏教を信仰してきましたが、他宗教への弾圧はほとんど行われませんでした。分離独立運動に対して、暴動鎮圧のために軍や警察が出動することがあっても、矛先が同地域のマレー系・ムスリム全体に向くことはありませんでした。しかしながら、ムスリムを、文化的に“仏教国”タイに包摂しようという働きかけは、教育政策を通じて継続的に行われてきました。

●「ラック・タイ」と宗教

 クン・ウィチットマートラーは1929年の著作「ラック・タイ」で、民族への愛、仏教信仰、国王への忠誠の重要性を訴えました。「民族」「宗教」「国王」への「三位一体的忠誠」という考え方は、そもそもラーマ5世時代(1853-1910)に起源をもち、ラーマ6世(1910-25)によって、官製イデオロギーとして体系化されたものです。

 「ラック・タイ」における「宗教」は「仏教」を示すもので、仏教が国家の発展のために特に重要な宗教として位置づけられました。(※現在のタイの国旗は赤、白、青の三色旗で、赤は民族、白は宗教、青は王室を象徴していますが、この3要素は、「ラック・タイ」に依拠するものです。)

 1940年代に入ると、タイ政府(ピブーン政権)は南部国境4県のムスリムに対し「同地域のマレー系ムスリムを『タイ人』と呼称」「イスラム教に則った、木曜・金曜の休日を土曜・日曜に変更」「ジャウィ語※による教育やジャウィ語文献の出版禁止」などの同化政策を打ち出しました。(柴山信二朗「タイ深南部におけるイスラーム教育機関の変遷と社会的役割の多様化」『人間科学研究』第20巻第2号, 2007年.p.38)※ジャウィ語は、マレー語のクランタン方言に近く、表記にはアラビア語を用います。

 馬場智子は「タイの公教育における宗教とムスリム」(『ASIA PEACEBUILDING INITIATIVES』, 2015年5月)にて、宗教教育に関するタイ政府の方針やカリキュラムの変遷を以下のように分析しています。

 1960年の「国家教育計画」以降は、(山岳民族を仏教徒に改宗させるタンマーチャリック計画が1965年に始まるなど)仏教の普及が全国的に図られました。1977年の「国家教育計画」では「ラック・タイ」の重視が明文化され、翌1978年のカリキュラムでは、仏教の信仰が国民の重要な資質として扱われました。この路線は、2001年のカリキュラム改訂まで続きました。

 2001年カリキュラムでは、従前、国民の資質とされてきた「仏教の信仰」に関する記述に変化がありました。具体的には、それまで特別な扱いであった仏教が「他宗教と並び立つもの」と位置づけられ、1978年のカリキュラムでは単に「宗教」と表現されていた(=宗教は仏教とほぼ同義だった)のが、「仏教または自分が信仰する宗教」という記述に変化しました。カリキュラムの「ラック・タイ」色が薄まったと言えます。

 なお、2001年や次の2008年のカリキュラムは、「自分が信仰する宗教」についての学習は保障していますが、それ以外の宗教についての学びには言及がありません。(「異文化への寛容」から一歩進んで「異文化への理解」に至るためには、他宗教について見識を深める学習機会が必要ですが、その点にはまだ配慮がなされていない模様です。)

 ここまで、“国民統合”という観点から、教育の分野で宗教がどう扱われてきたか、その大きな流れを概観しました。次号では、ムスリムに向けたイスラム教育が実際にどのように行われてきたかを解説します。

齋藤 志緒理

Shiori Saito

PROFILE

津田塾大学 学芸学部 国際関係学科卒。公益財団法人 国際文化会館 企画部を経て、1992年5月~1996年8月 タイ国チュラロンコン大学文学部に留学(タイ・スタディーズ専攻修士号取得)。1997年3月~2013年6月、株式会社インテック・ジャパン(2013年4月、株式会社リンクグローバルソリューションに改称)に勤務。在職中は、海外赴任前研修のプログラム・コーディネーター、タイ語講師を務めたほか、同社WEBサイトの連載記事やメールマガジンの執筆・編集に従事。著書に『海外生活の達人たち-世界40か国の人と暮らし』(国書刊行会)、『WIN-WIN交渉術!-ユーモア英会話でピンチをチャンスに』(ガレス・モンティースとの共著:清流出版)がある。

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