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COLUMN コラム

チャオプラヤー川に吹く風

2018.03.05

【チャオプラヤー川に吹く風(59)】カンチャナブリー~泰緬鉄道の歴史を知る(1)

齋藤 志緒理

泰緬鉄道の路線図(筆者作成):画像をクリックすると地図を拡大することができます。

 バンコクから西に約120キロに位置し、ミャンマーと国境を接するカンチャナブリー県は、面積では全タイで5番目に広く、約70%が山岳地帯です。エラワンの滝、サイヨーク国立公園など景観豊かな見どころも多いのですが、第2次世界大戦中、日本軍が敷設した「泰緬(たいめん)鉄道」の地区としても知られています。

 現在バンコクのトンブリー駅から、カンチャナブリーのナムトック駅まではタイ国有鉄道の南本線ナムトック支線が通っていますが、この路線は、かつての泰緬鉄道の一部です。

●泰緬鉄道とは

 タイ国を意味する「泰」とビルマを意味する「緬甸」(メンデン)の一文字をとり「泰緬鉄道」または「泰緬連絡鉄道」と呼ばれたこの鉄道は、日本軍がビルマ・インド進攻作戦のために建設したものです。1942年6月にタイ国側・ビルマ側から同時着工され、翌1943年10月に全415㎞(タイ国側304㎞、ビルマ側111㎞)が開通しました。

カンチャナブリーのJEATH戦争博物館に静態保存されている泰緬鉄道の機関車(筆者撮影)

 当時、日本軍はマラッカ海峡経由でビルマ・インド戦線に物資輸送をしていましたが、戦況の悪化で制海権を失いつつあり、新たに陸路による補給ルートを確保する必要に迫られたという背景があります。

 工事のために動員されたのは、日本軍約1万2千人、連合軍捕虜約6万2千人で、東南アジアの日本軍占領地域から徴用連行した人々(「労務者」と呼ばれました)が約30万人(マラヤから8万人、インドネシアから4万5千人、ビルマから18万人)。さらに募集に応じたタイ人数万人が工事に従事したと言われています。

現在のクウェー川鉄橋(筆者撮影)

 鉄道敷設工事は、熱帯気候のジャングルを切り拓く過酷なもので、栄養失調やコレラ、マラリアなどの風土病でおびただしい数の死者を出しました。連合軍捕虜の内約1万3千人が亡くなり、アジア人労務者は半数が命を落としたとも。(※動員数、犠牲者数については諸説あり。タイ人の死者については不明)

 戦後、泰緬鉄道はビルマ側、タイ国側それぞれに引き継がれましたが、ビルマ側は全線廃線に、タイ国側も(ビルマ寄りの)3分の2は廃線となりました。現在は、冒頭で紹介した「ナムトック線」の区間のみ1日3往復運行されています。

●クウェー川鉄橋

 クウェー川鉄橋は、泰緬鉄道が通るクウェー・ヤイ川に架けられた橋で、全長333メートル。橋脚と橋脚の間に小さい曲線のアーチを連ねています。1944年末から連合軍による空爆が始まり、当初は応急修理で対応できる範囲でしたが、1945年に入ってからの数度の空爆で、鉄橋中央部の3スパンが陥落しました。

 終戦後、クウェー川鉄橋は日本の戦後賠償によって修復されましたが、再建された部分以外は、建設当時の橋脚と橋梁が今も使われています。観光客は鉄橋の線路上を対岸まで歩いて渡ることができ、橋の途中には列車通過時の退避スペースもあります。

 この鉄橋は英米合作映画『戦場にかける橋』(原題:The Bridge on the River Kwai、1957年公開)の舞台にもなりました。日本軍の捕虜となって泰緬鉄道建設従事を強要される英国人と日本人大佐の相克を描いた作品です。

●永瀬隆氏の活動

 2011年6月21日に永瀬隆(ながせ・たかし)さんが岡山県倉敷市で亡くなったとの知らせが日本のメディアで報じられました。享年93歳でした。永瀬さんは泰緬鉄道建設に関わり、戦後は犠牲者の鎮魂のために活動した人物です。

 青山学院大学英語科を卒業した永瀬さんは陸軍省に入省し、1943年9月、泰緬鉄道の建設拠点だったカンチャナブリーの憲兵分隊に通訳兵として配属されました。泰緬鉄道が開通する1ヵ月前のことです。収容所内では、捕虜が日本軍将兵から虐待を受けたり、マラリアや熱帯性の潰瘍に苦しんだりする惨状を目の当たりにしましたが、それまで受けてきた軍国教育の影響から、「捕虜になったこういうひどい目に遭わされるから、戦争に勝たねばならない」と自分に言い聞かせていたそうです。永瀬さんが泰緬鉄道建設の被害の甚大さに直面し、贖罪の意識を抱いたのは、終戦後、連合軍の依頼により捕虜の遺体発掘に立ち会ったことがきっかけでした。永瀬さんは、連合軍将兵と共に約1ヵ月間、朝から晩まで作業し、線路沿いの220か所の埋葬場所を探り当て、遺体を掘り起こしたのです。
(岡山放送制作/2006年8月20日放送『運命の旅路~元通訳兵の戦後』を紹介したフジテレビのウエブサイトより)

 戦後、永瀬さんは倉敷市で英語塾を営みつつ、1963年から連合軍犠牲者の慰霊活動を開始しました。1976年10月にはクウェー川鉄橋で、元捕虜と旧日本軍人の再会を実現。1980年12月からはアジア人労務者の捜索を始め、1986年2月に橋の近くに犠牲者鎮魂の平和寺院を私費で建立しました。

 1992年にはタイ国・カンチャナブリー県・カンチャナブリー市の名誉県民・名誉市民となり、2002年には元英国連邦軍捕虜と日本との和解促進活動に対して英国政府から特別感謝状が贈られました。

 生前、泰緬鉄道を世界遺産として登録することを目指していた永瀬さんでしたが、その思いは果たせませんでした。永瀬さんの遺骨は、本人の遺志によりクウェー川鉄橋付近に散骨されました。

・・・次号では、カンチャナブリーにある泰緬鉄道関連の見学施設を紹介します。

齋藤 志緒理

Shiori Saito

PROFILE

津田塾大学 学芸学部 国際関係学科卒。公益財団法人 国際文化会館 企画部を経て、1992年5月~1996年8月 タイ国チュラロンコン大学文学部に留学(タイ・スタディーズ専攻修士号取得)。1997年3月~2013年6月、株式会社インテック・ジャパン(2013年4月、株式会社リンクグローバルソリューションに改称)に勤務。在職中は、海外赴任前研修のプログラム・コーディネーター、タイ語講師を務めたほか、同社WEBサイトの連載記事やメールマガジンの執筆・編集に従事。著書に『海外生活の達人たち-世界40か国の人と暮らし』(国書刊行会)、『WIN-WIN交渉術!-ユーモア英会話でピンチをチャンスに』(ガレス・モンティースとの共著:清流出版)がある。

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