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COLUMN コラム

チャオプラヤー川に吹く風

2018.04.02

【チャオプラヤー川に吹く風(60)】カンチャナブリー~泰緬鉄道の歴史を知る(2)

齋藤 志緒理

泰緬鉄道のクウェー川鉄橋駅のホーム(筆者撮影)

 前号に続き、第2次世界大戦中(1942年6月~1943年10月)、インド・ビルマへの補給路として日本軍により建設された泰緬鉄道について述べます。今号では、カンチャナブリー県で見学できる、同鉄道にまつわる施設・場所をいくつか紹介します。

【JEATH 戦争博物館】

泰緬鉄道の歴史を後世に伝えるため、1977年にワット・チャイチュムポン寺院の敷地内に建設された博物館です。JEATHは泰緬鉄道建設に従事したJ=Japan、E=England、A=Australia/America、T=Thailand、H=Hollandの頭文字で、泰緬鉄道が「死の鉄道」(Death Railway)と呼ばれたことからDeathをもじったとも言われます。

墓石が並ぶ「連合軍共同墓地」。墓地の塀越しに見える白い建物が「泰緬鉄道博物館」(筆者撮影)

建物はかつての捕虜収容所を再現すべく竹と茅葺屋根で作られており、捕虜たちが残したスケッチや当時の武器などが展示されています。筆者が見学したのは2017年8月でしたが、貴重な展示物やパネルが長年外気と紫外線にさらされ、経年劣化するままに置かれているように思われ、それが少々残念でした。

【泰緬鉄道博物館(Thailand-Burma Railway Museum and Research Centre:別名Death Railway Museum)】

2003年に新設された博物館で、設立者は泰緬鉄道についての著書もあるRod Beattieという戦後生まれのオーストラリア人。泰緬鉄道建設に関して体系的に知ることができます。非人道的な強制労働の有り様をことさらに強調し、加害国である日本を糾弾するのではなく、事実として何があったのかを様々な観点から展示する手法をとっていました。展示言語は英語とタイ語の2か国語。日本語があれば、日本人見学者がもっと増え、自国の関与した史実を深く学べるであろうに…と思われました。「捕虜たちは、もし見つかったら死を免れないにも関わらず、ラジオを作って収容所内に隠し持ち、日本兵の目を盗んで連合軍の進撃状況を知り、希望をつないでいた」という内容の解説が印象に残っています。

【連合軍共同墓地】

泰緬鉄道建設に駆り出され、病気や栄養失調などで亡くなった連合軍兵士6982柱の霊が眠る墓地です。カンチャナブリー駅にほど近く、全面芝生で、中央には十字架の塔があります。墓石と墓石の間には草花が植えられ、きれいに手入れされていました。墓石一つ一つには氏名と命日、享年、そして家族による「我が息子・・・」といった文言が刻まれているものもありました。

連合軍兵士の墓地としては、これ以外にもう1か所、カンチャナブリーの郊外に「チョンカイ共同墓地」があり、そちらには約1750人が埋葬されています。

なお、東南アジア諸国から徴用された労務者の犠牲者数は連合軍兵士よりもはるかに多かったものの、墓地はありません。前号で紹介した永瀬隆氏の生前の講演録によれば、終戦後の連合軍捕虜の遺体捜索の際は、朽ちかけた十字架を目印に掘り起こした由。東南アジア諸国からの労務者については丸木が一本だけ立てられた土まんじゅうの墓が累々とあり、中には墓をつくってもらえずにクウェー川に投げ込まれ、あるいは、線路の路盤に土の代わりに埋め込まれた遺体もあったとのこと。

【ヘルファイア・パス(Hellfire Pass)】

鉄道が通れるだけの狭い空間で、両側は高さ10メートルほどの断崖。泰緬鉄道建設の最難所であり、工作機不足のため人海戦術がとられ、多くの死者を出した場所です。現在は当時の枕木と線路が数メートルだけ残り、近くにある「ヘルファイア・パス・メモリアル博物館」(1998年、オーストラリア政府とタイ国の商工会議所が共同で設立)では工事に関する資料が展示されています。「ヘルファイア」の名前の由来は、夜を徹した突貫工事で炊かれたかがり火が「地獄の送り火」さながらであったためだそうです。

・・・・・・・・・

 2017年の訪問時、筆者はタイの友人の厚意で、バンコクから車でカンチャナブリーに行き、鉄道には乗車しませんでした。トンブリー駅からカンチャナブリーに向かえば、往時拓かれた線路の上を走り、周囲の景色を目に留めつつ、泰緬鉄道の歴史に思いを馳せることができるかもしれません。

 「クウェー川鉄橋駅」近辺はすっかり観光地化し、笑顔で写真を撮る人々で溢れ、暗い史実の影を感じることはありません。筆者は低い位置で線路の写真を撮ろうと、レールの上に膝をついたのですが、(ズボンの布地を通しても)数秒触れているだけで火傷をしそうな熱さでした。同行してくれたタイ人によれば「カンチャナブリーはタイ全土の中でもかなり暑い場所」とのこと。この鉄道の建設が、その灼熱の気候の中で行われたことを改めて思います。

●第2次世界大戦中の日タイ関係

 1941年12月8日、真珠湾攻撃と時を同じくして、日本軍はタイ各地に進駐を開始しました。進駐の際、タイ軍との間に戦闘が起こったものの、その翌朝、ピブン首相が日本軍の平和進駐を公式に認め、両国間で攻守同盟が結ばれたため、日本軍が以後、タイ軍と戦火を交える事態には至りませんでした。そして、戦後の対日感情は、日本が戦時中、侵攻・占領した他の東南アジア地域のそれとは大きく異なるものとなりました。
(本連載「チャオプラヤー川に吹く風」(6)タイ人の日本や日本人への意識(2013年10月25日掲載)参照。)

 こうした歴史的経緯もあり、われわれ日本人がタイ訪問時に、現地の人たち(特に戦争を知るお年寄りなど)から厳しい目を向けられることはまずありません。しかし、(タイ人を直接的に攻撃しなかったとはいえ)カンチャナブリーに足を運べば、日本人が鉄道建設のために、連合軍捕虜や徴用した東南アジアの人々に大きな犠牲を強いたという「負の歴史」が重く胸に迫ります。

 日本と同盟国であったが故に、タイの国土が連合国軍の攻撃を受けた事例も各地にあるようです。「日タイビジネスフォーラム」観光委員会編の冊子『タイローカルの魅力を訪ねて』によれば、ラムパーン県の「プミ・ラコーン博物館」には1943年、北部タイで日本軍の重要拠点だったラムパーンが連合国の空爆に遭い、21機による攻撃に対しタイ空軍機5機で応戦した史実が展示されているとのこと。また、同じく北部タイのプレー県内の寺院、ワット・メーランヌアでは、戦時中連合国軍が投下した大型爆弾が梵鐘として、今でも使われているそうです。

 タイ国民が連合国側からの攻撃にさらされたという事実やその実態は、日本ではあまり知られていないのではないでしょうか。上述の冊子は「そのような歴史事実をもっと我ら日本人は知るべきであり、その上に立ってこそ相互理解が深まるというものだろう」と述べています。

齋藤 志緒理

Shiori Saito

PROFILE

津田塾大学 学芸学部 国際関係学科卒。公益財団法人 国際文化会館 企画部を経て、1992年5月~1996年8月 タイ国チュラロンコン大学文学部に留学(タイ・スタディーズ専攻修士号取得)。1997年3月~2013年6月、株式会社インテック・ジャパン(2013年4月、株式会社リンクグローバルソリューションに改称)に勤務。在職中は、海外赴任前研修のプログラム・コーディネーター、タイ語講師を務めたほか、同社WEBサイトの連載記事やメールマガジンの執筆・編集に従事。著書に『海外生活の達人たち-世界40か国の人と暮らし』(国書刊行会)、『WIN-WIN交渉術!-ユーモア英会話でピンチをチャンスに』(ガレス・モンティースとの共著:清流出版)がある。

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