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COLUMN コラム

チャオプラヤー川に吹く風

2018.05.28

【チャオプラヤー川に吹く風(61)】ゾウのはな子の物語

齋藤 志緒理

JR吉祥寺駅前の「はな子」の銅像。高さ約1.5メートル、全長約2.5メートル。「ふっくらとした50歳代のはな子が、嬉しい時に鼻と前脚を上げるポーズ」(原型制作者・笛田亜希さんの言/毎日新聞2017年5月5日)が再現された。(写真撮影:吉川和夫)

 戦後間もない日本に、タイ国からやってきたアジアゾウが、今からちょうど2年ほど前、2016年5月26日に69歳の一生を終えました。ゾウの名前は「はな子」。今号では、「日タイ友好の懸け橋」とも言われたこのゾウにまつわる話を紹介します。

●はな子の来日

 2歳のはな子は1949年9月2日、船で神戸港に到着。同時期にインドのネール首相から贈られたアジアゾウの「インディラ」と共に、上野動物園にやってきました。1945年の終戦時、日本国内に残っていたゾウは名古屋市の東山動植物園の2頭のみでした(京都市動物園にも1頭残っていましたが間もなく餓死)。「またゾウが見たい」という子どもたちの声が報じられ、インドとタイ両国からゾウを贈りたいとの申し出を受けたのです。当時は、戦後の「象ブーム」とも言える時期で、東京のみならず日本中の動物園でゾウが渇望されました。

銅像の銘板には「井の頭自然文化園で愛された ゾウのはな子」と刻まれている(写真撮影:吉川和夫)

1949~51年の3年間に来日したアジアゾウは24頭にのぼりました。

●はな子という名前の由来

 来日したゾウは、公募により「はな子」と命名されました。戦時中の日本では、空襲などで動物園から逃亡して市民に被害を及ぼすことを防ぐため「猛獣処分」が実施され、上野動物園では、1943年にライオンなどのほか、(1935年にタイ国の少年団から贈られた)「花子」らゾウ3頭も命を絶たれました。毒入りのえさを食べようとしないゾウたち。その厚い皮には注射針も通らず、飼育員たちはえさを与えずに餓死させるしかなかったという悲話は後に童話『かわいそうなぞう』として出版されました。新しい子ゾウが「はな子」と命名されたのは、戦争の犠牲となったかつての「花子」を悼む人々の思いを反映してのことでした。

●「移動動物園」とはな子の引っ越し

 上野動物園に来た翌年、5か月間にわたり、インディラを中心とした「移動動物園」が東北と北海道を巡回しました。好評を博した移動動物園が東京に戻ると、「東京都内にも交通が不便な場所もあるのだから、ぜひ移動動物園を」との要請が増しました。近郊への移動の場合、船ではなくトラックを使用しますが、身体の大きなインディラでは車輸送は無理だったため、はな子を中心とした小型移動動物園が組織され、1950年10月、井の頭自然文化園に2週間あまり出張しました。翌1951年5月にも「都下移動動物園」が同園を含む多摩地区を巡り、続く1952年にも「井の頭公園祭」のため、はな子は再来園します。

 3度の来園を経て、すっかり人気者となったはな子は、武蔵野市民、三鷹市民の熱烈な要望を受け、1954年3月、上野動物園から井の頭自然文化園に譲渡されるに至りました。

●井の頭自然文化園でのはな子

 引っ越し当時7歳だったはな子は、その後60年以上を井の頭自然文化園で過ごしました。2013年(66歳)には日本で飼育されたゾウの長寿記録を達成し、3年後、70歳のお祝いを間近に控えて、その命を終えました。

 上野動物園時代のはな子はインディラと一緒に飼われた時期もあり、2頭は大変仲がよかったそうですが、井の頭に引っ越してからは、終生他のゾウと一緒になることはありませんでした。

 ゾウは野生では群れに生きる動物です。仲間もおらず、人間と暮らす訓練も受けたことがないはな子には、心労やストレスが積み重なっていったのでしょうか。1956年のこと、はな子は夜間、酒に酔ってゾウ舎に忍び込んだ男性を踏みつけて死なせてしまいます。また、1960年にも飼育係が踏まれて命を落とすという痛ましい事故が起きました。2度目の惨事後には、「殺人ゾウ」のレッテルが貼られ、脚には鎖の「手錠」がはめられて、2か月間ゾウ舎に閉じ込められました。はな子は人間不信に陥り、えさをほとんど口にせず、あばら骨が露わになるほどやせこけてしまいました。

 事故の2カ月後、殉職した飼育係の後任となった山川清蔵さんは、はな子の鎖を外し、触れ合い、語りかけて信頼関係を築きます。そして、約8年かけて、やせていたはな子を太らせました。山川さんのはな子とのつきあいは、定年まで30年間に及びました。山川さんは退職の5年後にがんで他界してしまいますが、翌、1996年には、多摩動物公園で飼育係をしていた息子・宏治さんが井の頭に異動し、以後11年間はな子の面倒をみました。山川さんの親子2代にわたる献身的な飼育が、はな子には大きな支えとなりました。

 晩年のはな子が静かに佇む姿は、印象深く、訪れる人の心に残ったようです。足しげく園に通い、孤高のゾウを眺め、話しかける人。胸の内にある悩みを打ち明け、はな子の眼差しに何かを感じて、力を得る人々の様子は、2016年2月、NHKの「ドキュメント72時間『真冬の東京 その名は“はな子”』」でも放送されました。

●はな子を贈ったサラサス家と日本とのつながり

 はな子は、タイ国の実業家、ソムアン・サラサス氏が私財を投じ、タイ政府の協力で日本に贈られました。ソムアン氏の父親は三井財閥や吉田茂氏とも交流のあった知日派で、経済大臣も務めた人物です。ソムアン氏も戦前から日タイ間を行き来し、「柔道の神様」と呼ばれた三船久蔵十段に師事しました。後年タイに柔道場を開き、1964年の東京五輪でタイ国の柔道チームの団長を務めたほどです。タイ国と日本が同盟関係にあった第二次世界大戦中、ソムアン氏は陸軍士官として両国の連絡役を担いますが、日本に接近しすぎたとして戦後の一時期、タイから追われ、ベトナムに亡命。その後、実業家として復活し、岸信介氏や福田赳夫氏とも交流がありました。

 ソムアン氏の長男、ウクリッドさんは、陸軍士官学校在学中の1964年、20歳で父の命を受けて来日します。東京の総合商社でビジネスのノウハウを学ぶのが目的でした。高校時代にボクシングを、士官学校時代に「ムエタイ」を習っていたため、来日後は、東京の「野口ボクシングジム」に入門しました。ちょうど同ジム創設者の長男でプロモーターの野口修氏がムエタイ/空手/ボクシングを融合させた「キックボクシング」を考案した時期で、ウクリッドさんは抜てきを受け、1966年にリングレフェリーとしてデビューしました。1986年には日本ボクシングコミッション(JBC)で審判員のライセンスを、間もなくA級ライセンスも取得し、長谷川穂積選手などの数々のタイトルマッチも担当しました。私生活においては、日本人の美奈子さんと結婚し、タイにある自動車関連企業の日本支店長などを務めました。

 1993年、はな子来日に尽くしたソムアン氏(当時80歳)が井の頭で、はな子と四十数年ぶりの再会を果たしました。「お互いに年をとったな」「ずいぶん長い間がんばってきたね」同氏はそう話しかけたといいます。

 ソムアン氏は1996年、84歳で亡くなりますが、長男のウクリッドさん一家は、今も日本に在住しています。武蔵野商工会議所などによる募金呼びかけにより、はな子が亡くなった翌2017年には、JR吉祥寺駅北口前に銅像が完成(写真参照)。5月5日の除幕式にはウクリッドさんのほか、ソムアン氏の三男、シナバスさんも来日して参加しました。武蔵野市では、同年、市制70周年記念事業の一つとして、はな子をかたどった、原付バイクのナンバープレートを交付するなど、市を挙げて、はな子を地域のシンボルとする動きがあるようです。


主な参考資料:
・『アジアゾウ はな子の69年』井の頭自然文化園(2016年9月)
・「さようなら、はな子(上・中・下)」(朝日新聞デジタル<東京版> 2016年6月8、10、11日)
・「銅像の除幕式 東京・吉祥寺駅前広場に」(毎日新聞デジタル 2017年5月5日)
・「日タイの『懸け橋』 運命を背負ったゾウと名レフェリー」(毎日新聞2017年6月18日)

齋藤 志緒理

Shiori Saito

PROFILE

津田塾大学 学芸学部 国際関係学科卒。公益財団法人 国際文化会館 企画部を経て、1992年5月~1996年8月 タイ国チュラロンコン大学文学部に留学(タイ・スタディーズ専攻修士号取得)。1997年3月~2013年6月、株式会社インテック・ジャパン(2013年4月、株式会社リンクグローバルソリューションに改称)に勤務。在職中は、海外赴任前研修のプログラム・コーディネーター、タイ語講師を務めたほか、同社WEBサイトの連載記事やメールマガジンの執筆・編集に従事。著書に『海外生活の達人たち-世界40か国の人と暮らし』(国書刊行会)、『WIN-WIN交渉術!-ユーモア英会話でピンチをチャンスに』(ガレス・モンティースとの共著:清流出版)がある。

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