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COLUMN コラム

チャオプラヤー川に吹く風

2018.09.18

【チャオプラヤー川に吹く風(63)】ミュージカル『王様と私』をめぐって(2)

齋藤 志緒理

 バーン・パイン離宮内の池水に建つ納涼用宮殿「プラ・ティナン・アイサワン・ティッパアート」:バーン・パイン離宮は、アユタヤ王朝第26代のプラサート・トーン王(在位1629-1656)がアユタヤの南約20㎞、チャオプラヤー川の中洲に建築。1767年に同王朝が滅んだ後、現王朝のラーマ4世が再建に着手し、ラーマ5世が造宮を引き継いだ。離宮内にはタイ式、西洋式、中国式など様々な建築物が現存する。(撮影:佐藤 惣一)

 前号では、タイ国ラタナコーシン王朝・ラーマ4世モンクット王の時代の王宮を舞台としたブロードウェイミュージカル『王様と私』(1951年~)とその映画版(1956年)、さらに1999年制作の映画『アンナと王様』について取り上げました。

 このテーマで執筆するのを機に、筆者も改めて2つの映画を鑑賞しました。タイ側が批判するところの「実際の歴史との乖離」「王室への侮辱」という点に関して、具体的に気づいた箇所を挙げてみます。

●映画『王様と私』(1956年)への所感

 『王様と私』では、タイの領土が不自然に大きく描かれた地図が登場し、チュラロンコン王子がその地図を前に、タイが世界の中心であるという世界観を示す場面がありました。(“世界事情に疎く、小さい世界のお山の大将であることに気づいていない王子”といった印象を与える演出です。)

 また、王様は、西欧列強が迫る厳しい時代に、シャムをどう導いたらよいのか、その迷いや不安を臆せずアンナに見せています。名君としてタイの歴史に名を遺したラーマ4世が「弱さ」「人間味」を周囲に晒すことに対して、タイ人が反発を覚えるのは理解できます。

 別のシーンでは、アンナと王様が当時米国で進行中の南北戦争について話し、王様は「象がないと北軍は勝てないから、リンカーンに象を贈ろう」と提案します。戦いの場で象を使うという、シャムの伝統的な戦法が、近代アメリカでも通じると信じ切っている様子(シャムの価値観だけでものを考えている姿勢)が描かれ、このあたりもタイ側が受け入れられない点と思います。

 そのほか、仏教に関する描かれ方として疑問を感じたのは、病床の王様の傍らに僧たちが手を合わせて(“ワイ”をして)座り、快癒を祈っていることです。『王様と私』ではモンクット王がアンナの滞在中に亡くなるという設定になっており、それは史実とは異なるのですが、その点は置いても、上座部仏教において、出家者である僧が、(いかに身分が高いとはいえ、俗世にいる王に対して)“ワイ”をすることはありません。

●『アンナと王様』(1999年)への所感

 『アンナと王様』では、王様像が『王様と私』とは異なります。『王様と私』では、時に王様の「世間知らず」(西洋事情への疎さ)が滑稽に描かれ、アンナが王様を啓蒙するというスタンスが目立ちましたが、『アンナと王様』の王様にはそうした「滑稽さ」はなく、国の将来や王子たちの教育に心を砕く、慈愛に満ちた君主といった演出がなされています。

 とはいえ、王様が国の大事についてアンナの助言を仰ぎ、深い信頼を寄せるという設定は、王のリーダーシップに心許なさを感じさせ、タイ側としては認めがたいものと思われます。また、二人が、親愛の情を超えて、互いの間に異性としての意識を芽生えさせ、終盤で別れのダンスを踊る・・・というシーンも、「王室の冒涜」という批判につながるものと思います。

 王の側室となったタプティムと同郷の恋人との悲恋は、『アンナと王様』でも重要なプロットです。恋人がタプティムへの思いを断つため出家したのち、タプティムも王宮を出奔し、寺院に身をひそめ、そこにアンナが訪ねていくシーンがありました。その際、剃髪したタプティムが僧衣をまとっていたのには違和感を覚えました。上座部仏教で、女性は僧になることはできません。「メーチー」という女性在家信者として寺で修行することはありますが、身につけるのは僧衣とは違う白衣です。そもそも、僧になった恋人を追って王宮を飛び出すというストーリーも、上座部仏教徒には考えづらいものです。(『王様と私』でも、タプティムとルンタは逃避行をしますが、寺に出家はせず、王宮から直接逃げています。)

 この映画の制作側は、タイ国での撮影許可を得るため、「タイ国映画委員会」の審査を受け、その意向に沿って一旦は脚本の修正を行いました。結局許可は下りず、撮影はマレーシアでなされたわけですが、タイ国内で撮影する場合の制約(脚本にタイ側の要求を反映させる必要)がなくなったことで、「歴史考証の正しさ」から「作品としての娯楽性」への揺り戻しがあったのかもしれません。

●まとめ:戯曲と現実のはざま

 アンナ・レオノーウェンスという英国人女性が、ラーマ4世の治世中、1862年からの6年間、シャムの王室で皇太子をはじめとする王子・王女や王妃ら妻たちの教育係として過ごしたのは事実です。アンナの教育が、次代のラーマ5世チュラロンコン王に何らかの影響を与えた可能性は高く、王室の「近代化」(西洋化)に一定の貢献はあったと思われます。

 しかし、ミュージカルや映画で描かれているように、アンナがラーマ4世に対し、実際に数多くの進言を行ったのか(そのような関係性にあったのか)には疑問が残ります。また、シャムの近代化を推し進めたラーマ5世の為政の原点はアンナの教育にあったとする描き方は、過大評価かもしれません。

 例えば、『王様と私』でも『アンナと王様』でも、シャムの奴隷制について、アンナが批判的な目を向け、チュラロンコン王子がそれに感化を受けるという設定があります。確かに「奴隷制の廃止」はのちのラーマ5世の治績の中でも特別な功績とされますが、教育、軍事、地方行政など多方面にかかわる「チャクリー改革」の一環として実施されたもの。その背景には、シャムが欧米による植民地化を免れ、独立国として存続を図るという厳しい命題がありました。「奴隷制の廃止」だけを取り出し、それがアンナの訓育の結果だと結論付けるのは無理がありましょう。

 『王様と私』も『アンナと王様』も、歴史上の人物を扱っているとはいえ、あくまで創作作品ととらえ、歴史考証等の正しさは求めないのが、鑑賞のありかたと思います。

 作品として鑑賞する場合、映画『王様と私』では音楽や劇中劇などに、当時のブロードウェイミュージカルの粋が尽くされており、映像も鮮やかなカラーで、60年以上前の制作という古さをあまり感じません。(劇中劇で後宮の女性たちが踊るダンスは、タイ国の伝統的なダンスとは大きく異なりますが…)

 これらの映画を観るのに、史実とのずれに一つ一つ目くじらを立てて鑑賞すれば、作品として楽しめないかもしれませんが、タイ国当局がいまだに国内での上映を禁じているのは厳然とした事実です。映画で描かれているのは、言うなれば「教師としてシャムに渡った西洋の女性が、当時の王宮で感じたカルチャーショック」ですが、そこには「オリエンタリズム」と呼ばれる、西洋中心主義による東洋像(野蛮で文明が未発達といったイメージ)が反映されているといわれます。歴史考証による、一つ一つの「誤り」もさることながら、作品全体がこうした「オリエンタリズム」に染められていることが、タイ国側には、看過しがたいものなのでしょう。将来再び、欧米のプロダクションによって、ラーマ4世とアンナ・レオノーウェンスの物語が映画化されることがあったら、その時は、やはりタイ国内での撮影許可や上映をめぐって、一筋縄ではいかない論議がおこり、制作者側の演出が細かく問われることになるでしょう。

齋藤 志緒理

Shiori Saito

PROFILE

津田塾大学 学芸学部 国際関係学科卒。公益財団法人 国際文化会館 企画部を経て、1992年5月~1996年8月 タイ国チュラロンコン大学文学部に留学(タイ・スタディーズ専攻修士号取得)。1997年3月~2013年6月、株式会社インテック・ジャパン(2013年4月、株式会社リンクグローバルソリューションに改称)に勤務。在職中は、海外赴任前研修のプログラム・コーディネーター、タイ語講師を務めたほか、同社WEBサイトの連載記事やメールマガジンの執筆・編集に従事。著書に『海外生活の達人たち-世界40か国の人と暮らし』(国書刊行会)、『WIN-WIN交渉術!-ユーモア英会話でピンチをチャンスに』(ガレス・モンティースとの共著:清流出版)がある。

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