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COLUMN コラム

悠久の国インドへの挑戦

2016.12.19

「悠久の国インドへの挑戦」40 忘れ得ぬ出来事:インドを離れる日

藤崎 照夫

ジョードプルの要塞

1996年1月5日、丁度私の50歳の誕生日にインドへの2回目の駐在赴任をして6年が経過しました。会社の規定で年に2回は日本での健康診断を受けることになっており、95年の暮れから96年の1月6日まで私は日本へ一時帰国をし、インドへ戻ってからは通常通り日本からの来客の応対や内外の会議をいつも通り遂行しながら毎日を過ごしていましたが、1月末からは上海での本部報告会、タイでの新車の試乗会に参加し、2月の初めにはインドへ戻り日本からの業務監査チームの受け入れ準備を始めたところでした。

1月の半ばごろ私の部下で営業部長をやっているY君から、「藤崎さんホンダはいよいよ台湾でパートナーと合弁を解消し四輪の100%ホンダ資本の新会社を作るようですよ。そうなったら誰が社長で行くのでしょうかね?」と質問されたことがあります。ホンダにとって台湾市場は海外への輸出を最初に開始したマーケットでもあり、台湾のパートナーはホンダの海外での取引の最も長い会社でした。然しながらホンダとの関係がどうもうまく行ってないようで、ホンダの色んな人達が台湾を訪問し会議をやったりサポートチームを派遣していることは私も風の噂では聞いていましたが、インドへ赴任してからは自分の足元を固めることが第一で台湾の事は念頭から消えていました。

Y君が私に上記の様な質問をした理由は、Y君はインドへ赴任する前はアジア課長として台湾も担当しプロジェクトに深く関っていたからのようですが、彼の質問に対する私の答えは「台湾は最も近くて最も付き合いの古いパートナーがいる市場だから手練れた人が用件だろうが誰を選ぶかは役員室の度量だろうね」というもので、その後はその件は忘れていました。ところが丁度業務監査が開始され日本から来ていた監査役と話をしていた時、本社の役員から緊急の電話が入りました。

そこで私の台湾での四輪製造、販売の新会社への社長としての転勤とY君が私の後任としてインドでの社長へ昇進するということが伝えられました。

私はインドでの2回目の赴任が丸6年を過ぎ、会社もどうやら単年度の黒字化が達成出来たので、これから将来への発展の第2段階を築いていこうと考えていた矢先で、定年まで残り4年なので最後までご縁があったインドでホンダでのビジネスマン生活を全うしようと思っていましたが、なかなか自分の思い通りには行かないものですね。

ホンダの役員からの電話を受けた後日本の台湾担当の部長と話をしたところ、「台湾ではこれまでにホンダの四輪車を買ったお客様が30万人以上いるので、これらのお客様のために出来るだけ早急に新しい販売網を作ってサービス対応が出来るようにして頂きたい」ということで、台湾にあるホンダ事務所の駐在員が仮事務所を既に借りて幹部社員の募集の段取りをしているのでその面接に立ち合って欲しいとリクエストされました。並行して会社の中で私の異動の件を日本人副社長、インド人副社長、駐在員、インド人幹部社員に伝えた後秘書に話をしたところ、涙ぐんで「この話は聞きたくありませんでした」と言われました。

パートナーには電話で今回の異動の件を伝えましたが、「もう暫く一緒に仕事が出来ると思っていたので、大変残念だが台湾でも是非成果を上げて欲しい」と激励を受けました。彼とはほぼ同じ年齢で、新会社の立ち上がりからずっと親身になってサポートをして貰い感謝の気持ちで一杯でした。2月の中旬から実際にインドを離れる4月上旬までの2カ月の様子は次回に譲りたいと思います。

藤崎 照夫

Teruo Fujisaki

PROFILE
早稲田大学商学部卒。1972年、本田技研工業(株)入社後、海外新興国事業に長年従事。インドでは、二輪最大手「Hero Honda」社長、四輪車製造販売合弁会社「Honda Siel Cars India」初代社長として現地法人トップを通算10年務める。その後、台湾の四輪製造販売会社「Honda Taiwan」の初代社長、会長を務めた後2006年同社退職。現在はサンアンドサンズ社、ネクスト・マーケット・リサーチ社等の顧問として活躍インド、アジア事情に幅広く精通している。

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