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COLUMN コラム

駐在員のための中国ビジネス ー光と影ー

2015.10.05

駐在員のための「中国ビジネス―光と影―」(第26回)駐在員心得(その12)

菅野 真一郎

(4)現地化推進

中国・雲南省・昆明の南東約80kmに位置する石林

③人の現地化(その3)

前回は日中投資促進機構役員懇談会(2011年3月)での発言を紹介する形で、中国人を抜擢して優れた人事・労務管理を実践している事例を説明しました。
今回もやや旧聞に属しますので現時点での状況は必ずしも正確には把握していませんが、人事・労務管理の好事例とその工夫をご紹介したいと思います。

名前を聞けばどなたもご存じの欧米のグローバル企業の通信機器・携帯電話メーカーは、当時中国での創業十数年、同社のアジア地区最大の工場を誇り(製品の70%は輸出)、優秀な人材確保のため全国で有力大学と提携して10か所以上にR&Dセンターを作っていました。
全国の従業員数は9,000名、内北京の商品開発部門や全国のR&Dセンターにその5分の1以上の人員を配置しています。本社からの駐在員は僅かに6名、全員商品開発部門です。従って中国工場約7,000名には本社からの駐在員はいません。中国工場の董事長はシンガポール系中国人、総経理はアメリカ系中国人が赴いています。
そしてボードメンバー(経営陣)は中国人が2名(董事長、総経理が入っていると思われます)のほかは本社からの派遣という構成です。
当該工業開発区の中でも相当初期の頃進出した当社は、外資系では中国最大の輸出貢献企業ということもあって、地元の開発区や人民政府とは良好な関係を維持しているというのが案内してくれた中国人広報部長の説明でした。
ワーカーの初任給の基本給は恐らく全国製造業平均を下回る水準(この外に諸手当や残業代が加算される)、本社工場平均でもその水準の低さには驚かされました。しかし例えば社会保険費用や食事は全額会社負担です。見学の最終段階は、昼食時の社員食堂の中を通されました。食堂は工場本部社屋の中にあって設備や備品もきれいで、メニューも豊富、湯気がもうもうと立ち込め見るからにおいしそうな食事風景でした。廊下や食堂で行き交う職員の表情が明るいのが印象的でした。
給料水準はそれ程高くないのに皆生き生きと働いている様子を見て、人事管理、労務管理が相当行き届いているのではないかと想像した次第です。ちなみに離職率は他社をはるかに下回る低さです。

次は日本の大手家電・電機メーカーの中国工場の話です。当該中国工場は創業十数年、私にとって創業以来2度目の見学でした。
当社は日中の出資比率が50:50の合弁事業で、設立は1987年、操業開始は1989年、中国人従業員4,900名、日本人駐在員は8名で操業当初よりむしろ減っているそうです。但し日本人の部門責任者は、総経理、製造部長、総会計師の3名で、2名の副総経理の外、人力資源部、生産技術部、商品事業化推進部、営業部、資材部、品質技術部、発展規画弁公室の部長・室長は全て中国人ということです。前述の欧米企業に負けず劣らずの人の現地化振りですが、日本人の総経理や製造部長、総会計師のご説明には、ここまでの現地化を実現した合弁会社運営の貴重なノウハウが蓄積されていることがわかります。その一端をご紹介したいと思います。

1978年、鄧小平副総理が来日した折、本社工場を案内したのが縁で、日本側の創業者は中国から招かれ、その初回訪中の折、鄧小平副総理との会談で中国に対する経済技術協力を約束したのが当社設立の発端と言われています。
1980年代後半、合弁会社が設立されました。合弁会社は日本側企業と当該市の全面提携を謳い、中国側出資者は地元国有企業3社が名前を連ねています。合弁会社は日本側企業の創業者の経営哲学、経営理念、当時中国企業としては珍しい社会貢献などを謳い上げています。鄧小平お声がかりで日本の先進技術と経営管理方法を学び、中国の会社経営の近代化、当該産業分野の技術水準の向上、国際競争力向上を実現しようとする意気込みが掲示板など随所に感じられる工場の雰囲気です。

日本から派遣された初代総経理は、「企業の成否は人にあり」「物をつくる前に人をつくる」「今日から私自身半分は日本、半分は中国」と宣言して、250名の工員を日本に派遣しました。彼らは約6ヶ月訓練を受けて技術のみならず創業者の経営理念も身に付けて戻った訳ですが、第一期研修生から二人の副総経理や課長以上の多くの幹部が誕生しています。

1989年6月3日土曜日、最初の製品がラインオフし、6月5日月曜日から本格生産の準備に入ろうとした前日6月4日、「天安門事件」が勃発、本社からは駐在員全員に帰国命令が出ました。事件で市内の交通は全面封鎖されたため、6月5日の中国人職員の出勤は不可能と思っていたところ、皆が3時間、4時間かけて続々と出勤してきました。日本人駐在員は、「ここで自分達が帰国して事態が落ち着いてから戻ってきて、あれこれ言っても言う事を聞かないだろう」と考え、残留して生産活動を続行することを決断しました。
社会的大騒乱の中での生産体制整備は大きな困難を伴ったことは想像に難くありませんが、会社年表によれば、1989年7月第1生産ライン生産開始とあります。日本人が帰国せず中国側と協力して工場生産を立ち上げたことが日中相互信頼の構築に大いに寄与したことは間違いありません。
翌1990年5月第2生産ライン生産開始、同8月にはアメリカのUL、カナダのCSA、ドイツのVDE、イギリスのBSI等の安全規準をクリアし、1993年第3生産ライン、1995年第4生産ライン、1998年第5生産ラインが完成し、略々順調に生産を拡大してきました。

(つづく)

菅野 真一郎

Shinichiro Kanno

PROFILE
1966年日本興業銀行入行、1984年同行上海駐在員事務所首席駐在員、日中投資促進機構設立に携わり同機構初代事務局次長、日本興業銀行初代上海支店長、同行取締役中国委員会委員長、日中投資促進機構理事事務局長を経て、2002年―2012年みずほコーポレート銀行顧問(中国担当)、2012年4月より東京国際大学客員教授(「現代中国ビジネス事情」)。現在まで30年間、主として日本企業の中国進出サポート、中国ビジネスに係るトラブル処理サポートの仕事に携わってきた。

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