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COLUMN コラム

世界最北の日本レストラン フィンランドで苦闘したあるビジネスマンの物語

2016.03.22

【世界最北の日本レストラン―フィンランドで苦闘した あるビジネスマンの物語(65)】江戸の仇を北欧で

長井 一俊

春近し、愛馬の試乗

春近し、愛馬の試乗

3月も半ばを過ぎると、春の到来を予告するポリ独特の景色がある。郊外の雪道を競争馬のオーナー家族が、来るべきシーズンに備えて、愛馬にのって闊歩する風景だ。知人の馬主家族は、大きな2頭のサラブレッドに夫婦が騎乗し、その後から、小学生の娘が小型の蒙古馬に乗って隊列をなすのは、じつに微笑ましく、羨ましい光景だ。

ポリの町は、地方都市でありながらも、競馬場を持ち、観光資源の一つとしている。ポリ競馬場では、かつて平場で活躍したサラブレッドの古馬達による障害競馬と、騎手が二輪車に乗って蒙古馬を速歩させる繋駕競馬(トロット)の二つが行われる。蒙古馬は、体は小さいがタフで牽引力がある。最大の特徴は、サラブレッドは大股で飛ぶ様に走るのに対し、蒙古馬は側対歩(添付写真)で、常に対側の2本の足が地上に接している。その為、馬上の揺れが少なく、子供でも安心して乗れる。

障害レース

障害レース

ジンギスカンが世界一広い領土を得たのも、兵士が蒙古馬に騎乗しながら睡眠出来て、長い距離を短日間で走破したから、と言われている。

ポリ競馬場は、フランスのロンシャンやイギリスのアスコット競馬場のような華やかさは無いが、日本の競馬場と比べると遥かにカップルや家族連れが多く、雰囲気は上々だ。

トロット競馬

トロット競馬

それでも日本と同様に、競馬の常習患者は財布が底をつくまで賭ける。競馬ファンは、勝った時には大酒を飲もうと、自動車ではなく電車やバスでやってくる。負け組はいずこも同じで、頭を下げてとぼとぼとポリ駅に向かう。誰がつけたか日本では“おけら街道”と呼ぶ。言い得て妙だ。

私の店に来る客達は皆、その日の勝ち組である。あぶく銭だから、飲みっぷりもよい。勝つ人は、度胸の良い人と決まっている。負けが続くと、穴馬に残金を賭け、逆転を狙う。一方、弱気な人は負けが込むと、掛け金を少なくして本命に張る。よって、逆転のチャンスは無い。言うまでもなく競馬は、胴元である行政がハナから数割を抜いてしまうので、客に勝ち目は薄い。競馬がある日私は、レストランを早めにパブに変身させて、勝者のおこぼれを頂戴する。

側対歩とは

側対歩とは

どういう訳か私は、競馬と縁が深い。留学生時代に貿易の仕事を始めた私は、スウェーデン製の赤外線による体表温・測定装置を日本に紹介した。人間の医療に使用するのは、薬事法上ハードルが高いので、まず獣医さん達に当たってみた。その一人が「競走馬の障害診断に使えるかも知れない?」と言って、多くの厩舎を紹介してくれた。以来、私は沢山の牧場のオーナーや馬主と知り合いになった。

ある日、重賞レースに勝った馬主からディナー・パーティーに招かれた。隣席したのは文筆家で、本業のかたわら、競馬新聞に解説記事を載せていた。彼は私より一回り年長であったが、出身大学が同じだったこともあって、以後しばらく親しく付き合わせて頂いた。その年の日本ダービーが開催される朝、私は彼から電話をもらった。『今日、一緒にダービーを見に行かないか』『お誘いは嬉しいのですが、海外出張が迫っているので別の機会にお願いします』『実は今朝方、変な夢を見ましてね。5番のゼッケンを付けた2頭の馬が、続けてゴールしたんだ・・・』 私はそれを聞き流して、電話を切った。

私は常々競馬関係者から『競馬で儲けるのは、行政と馬主から馬を預かる牧場主しかいない。馬券を買ったり、馬主になる夢をみていたら、いつかは破産しますよ』と注意を受けていた。しかし、その日の正午近くになっても、先輩から聞いた夢の話が忘れられず、私は立川駅の傍にある場外馬券売り場に行って、特券(当時売られていた1000円馬券)を10枚買った。

まか不思議にも、そのダービーで5枠に入っていたヒカルイマイとハバー・ローヤルの2頭が1、2着に入った。そして、連枠の賞金倍率も55倍だった。世に言う「昭和46年のゴーゴー・ダービー」である。当時の物価は現在の10分の1ほどの時代だから、手にした55万円は大金だった。しかし、それらはビジネスの資金繰りに回され、短期間で雲散霧消してしまい、先輩との交際も途絶えてしまった。

それから30年ほど経ったある作家の出版記念パーティーで、偶然その先輩と再会した。先輩はその後、いろいろあったようで、年齢以上に老いが顔に出ていた。パーティーの後、先輩を赤坂の飲み屋に誘い、彼の話を聞いてやった。彼は、『小説を書く以上は、登場する人物の、内蔵を抉り出すように書かねばない、と常々思っていた。そのせいであろうか、描いた人物の家族やその末裔から“名誉毀損”や“プライバシーの侵害”で、何度も裁判沙汰になった。その都度、高い慰謝料を払わされて、なんとか和解した。こんな馬鹿な商売はやっていられない、と悟って筆を折った。その後は、「新人発掘屋」とか「出版周旋屋」等の肩書きで、人の書いた著作を出版会社に売り込む仕事をしてきた。今で言う「出版企画会社」だよ。まあまあこの仕事は上手く行っている』

先輩は文才だけではなく、商才にも恵まれていたのだ。以後、彼との親しい付き合いが再開した。

そして、この3月の下旬に、私の携帯に先輩から突然電話が入った。『今、ストックホルムに来ている。帰り道、フィンランドに寄る。ヘルシンキのホテルに2泊の予約をしているが、君の住むポリは遠いのかね?』『ポリはヘルシンキからかなり離れています。宿をキャンセルして、拙宅に泊まって頂けないでしょうか』と頼んだところ、快諾された。

彼はポリに着くなり、『これだけ広大な地だから、牧場も沢山在るでしょう。一度フィンランドの馬達を見てみたいと思っていたんだ』

その日はすでに夕方になっていたので、知人の獣医が開いた、ニューコンセプト“ペットのデパート”に案内した。倒産したスーパーの建屋を、獣医が買い取って、その広大な店内で、動物病院、ペット美容院、ペットフード、ペットの描かれたアパレル商品等々、ペットに関連するあらゆるビジネスを展開していた。先輩から『よいものを見せてもらった』と感謝された。

翌日、レストランを臨時休業して、先輩をポリの郊外にある障害馬の屋内調教所と、3つの牧場に案内した。

日本で牧場と言えば、主に牛が飼われているが、北欧では馬を飼う牧場が多い。農耕民族であった日本人は、畑を耕し、重い荷物を運ばせようと、力のある牛を大事にしたが、狩猟を糧とした北欧人は、獲物を追って早く移動しようと、牛よりも馬を大事にした。乗り物にしても、日本では牛車が多く使われたが、欧米ではほとんどが馬車であった。

この日の晩、地酒のウオッカを飲みながら彼は、『馬にも北欧にも詳しい君に質問するのは変だが、“有馬記念”の名前の由来を知っているかい?』

有馬記念は年末に行われる重賞レースで、性別や年齢に制限を付けず、人気投票で出走馬を決め、実力日本一を決定するレースである。観衆は10万人を超す一大イベントだ。しかし不覚にも私は、有馬記念の名の由来を知らなかった。

先輩は『戦後まもなく、イギリスで活躍したフィンランド生まれの女優、アリ・マキネンが日本にやってきた。競馬好きの彼女は、日本にヨーロッパの競馬事情を詳しく紹介し、当時、日本を統制していたGHQとの交渉にも大いに尽力してくれた。しかし彼女は1955年、急性白血病で日本滞在中に急逝してしまった。そこで競馬関係者は、彼女の功績を称え、翌年の1956年に彼女の名アリ・マキネンを冠した、有馬記念レースを誕生させたんだよ』 私はおのが不明を恥じると同時に、この話に深く感動した。

翌日の朝、ポリ飛行場で先輩は『わずかだが、宿代の足しにしてくれ』と言って、私に封筒をくれた。彼を見送った後、その封筒を開いてみると、550ユーロ(約7万円)が入っていた。

帰国後しばらくして先輩から、「無事帰国した。貴地でいろいろ見せてもらって感謝する」旨のメールが届いた。すぐに私は彼に、宿代としてもらった550ユーロと有馬記念の由来を教授してくれたお礼をメールした。文中で、「女優アリ・マキネンの感動的な話を、ポリ大学の教授や、店に来る常連客に話したところ、皆、私同様に感動してくれました」と書いた。

すると、その日の内に先輩からのメールが戻ってきた。「君はあの話を真に受けたようだね。誰の創作かは知らないが、競馬仲間ではかなり知られているジョークだよ。本当は、競馬界の重鎮、有馬頼寧の“中山競馬場の改装を機に、日本初の人気投票による競馬を”との提案でレースが始まったから、“有馬記念”と命名されたんだよ。・・・私はあの日のダービーで、ゾロ目が出るはずが無いと、5―5馬券を買わなかったんだ。後に風の便りで、君が『神のお告げで、ゴーゴー・ダービーを制した』と多くの人に自慢していた事を知って、本当に悔しかったよ。私に一円どころか、一言の礼も言わなかった君に、いつか敵討ちをしようと、チャンスの到来を待っていたんだ。江戸の仇を、長崎よりずっと遠い北欧で果たせたとは、痛快、痛快!」と書かれていた。

チキショウ!ヤラレタ! 私は先輩の「馬にも、北欧にも詳しい君に・・・・」のおだてに、すっかり載せられてしまったのだ。宿代の額、550ユーロも、その当てつけに違いなかった。

「文士を友に持つなかれ、ろくなことはない。持つなら、医者か弁護士にしろ」や「人は借りた事はすぐ忘れるが、貸した事はいつまでも憶えている」などの、先達の教えを思い出しながら、先輩が土産に持ってきてくれたウイスキーを、ストレートで呷った。

長井 一俊

Kazutoshi Nagai

PROFILE
慶応義塾大学法学部政治学科卒。米国留学後、船による半年間世界一周の旅を経験。カデリウス株式会社・ストックホルム本社に勤務。帰国後、企画会社・株式会社JPAを設立し、世界初の商業用ロボット(ミスター・ランダム)、清酒若貴、ノートPC用キャリングケース(ダイナバッグ)等、数々のヒット商品を企画・開発。バブル経済崩壊を機にフィンランドに会社の拠点を移し、電子部品、皮革等の輸出入を行う。趣味の日本料理を生かして、世界最北の寿司店を開業。

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