グローバル HR ソリューションサイト
by Link and Motivation Group

グループサイト

文字サイズ

  • 小
  • 中
  • 大
  • お問い合わせ
  • TEL:03-6779-9420
  • JAPANESE
  • ENGLISH

COLUMN コラム

チャオプラヤー川に吹く風 タイ人の暮らしと文化

2016.02.08

【チャオプラヤー川に吹く風(34)】「山田長政」考 その2~長政略伝

齋藤 志緒理

アユタヤにはかつて「旧日本人街」との簡素な標識があったが、タイ国日本人会と日本政府の援助で1987年に新たに日本人町跡の碑が建設された。(筆者撮影)

前号で、静岡市内で毎年開催される「日・タイ友好 長政まつり」を紹介しましたが、長政に関しては、はっきりしないことが沢山あり、出生地についても駿河国のほかに、長崎、伊勢、尾張など諸説あります。現在「長政まつり」が開催されている静岡市葵区の浅間通りは、長政が幼少年期を過ごした場所と伝承されています。今号では、アユタヤの歴史に名を残した長政の足跡をたどってみましょう。

●タイに渡るまで

「山田仁左衛門長政」の生年は不詳ですが、おそらく1590年ごろと推測されています。タイに渡る前は、駿河国の沼津藩主(三枚橋城・城主)、大久保忠佐の轎夫(駕籠かき)をしていました。1613年に忠佐が死去した後、跡継ぎがいなかった大久保家は断絶、三枚橋城も翌1614年に廃城となります。

長政が朱印船に乗って、アユタヤに渡ったのは1612年前後とみられます。渡航の動機や経緯はわかっていませんが、主家の断絶とほぼ時期を同じくしており、何らかの因果関係があるのかもしれません。

アユタヤ王朝は1767年にビルマ軍の攻撃を受けて滅亡。その遺跡群はアユタヤ歴史公園として整備され、1991年にはユネスコの世界遺産にも登録された。(筆者撮影)

●17世紀前半のアユタヤと日本人町

アユタヤは、417年(1351~1767年)の長きにわたり、35代の王が君臨したアユタヤ王朝の首都です。17~18世紀の首都アユタヤの人口は約19万人、地方国を含めた全領土の人口は600万人未満と推定されています。

チャオプラヤー川、ロッブリー川、パーサック川の合流点にある港市アユタヤには、元々、(明朝・清朝皇帝への朝貢の形式をとって行われた)対中貿易を支える中国人が居住していました。16世紀以降はオランダ、英国、ポルトガルなど多くの外国人が渡来・居留し、17世紀にはアジアの国際貿易都市として、世界にその名が知られるようになりました。

16世紀末~17世紀初めには日本人町も形成されました。その規模は、昭和初期の調査で、東西約230m、南北約570mであったことが明らかになっています。また、最盛期の日本人町の人口は1500人に達したと推定されています。

日本人町の住民は、貿易に携わる商人のほか、日本での迫害を逃れたキリシタン、関ヶ原の戦いや、大坂城落城後に亡命した浪人などでした。日本人居留民は、平時には鹿皮や鮫皮、蘇木(そぼく:漢方薬の原料)などの貿易に従事しつつ、有事には、日本人義勇隊(Krom Asa Yipun)を組織し、対ビルマやカンボジアの戦争に馳せ参じました。国王の近衛隊には200~800人の日本人傭兵がいたとみられています。

●アユタヤでの長政の活躍

アユタヤ宮廷は、各外国人居留区の頭領にタイの官位を授け、俸給を与えて居留民の監督に当たらせていました。

山田長政は、アユタヤで鹿皮、鮫皮、蘇木の仲買人として頭角を表し、1620年頃に日本人町の頭領に任命され、日本人義勇隊の隊長も務めました。ソンタム王の信任が厚く、「オークヤー・セーナーピムック」と呼ばれる大臣の地位にまで上りました。

長政の成功は「貿易家」と「武将」の二面にわたっています。貿易家としては、1621年にアユタヤの使節が訪日する際、部下を随行させて、書を江戸幕府の土井利勝、本多正純に送り、交易の斡旋に努めるなどの事績を残しており、武将としても、日本人義勇隊を率い、外征や内乱鎮圧で功を成しました。

●王位継承争いとリゴール赴任

さて、長政を厚遇したソンタム王が1628年に病没すると、宮廷では、王子擁立派と王弟擁立派による後継者争いが勃発します。ソンタム王は生前王子による継承を望んでいたため、長政は王子擁立派につき、800人の日本人義勇隊と2万人のタイ人を率いて、反対派を鎮圧しました。

しかし王位を継いだソンタム王の子、チェーターティラート王(当時15歳)の王座は安定せず、長政と共に擁立に尽力した権力者、オークヤー・カラーホームとの政争に敗れて処刑されてしまいます。その後を継いだチェーターティラート王の10歳の弟アーティッタヤウォン王もわずか1ヵ月で廃位され、1629年、オークヤー・カラーホームが自ら王位に就き、プラサートトーン王となりました。

プラサートトーン王の即位と同時期に、長政は南タイのリゴール(六毘:現在のナコンシータマラート)の国主(太守)に任命されています。(※アユタヤとナコンシータマラートの場所はこちらの地図参照)

この任命については、
―王位継承争いに関与した日本人・山田長政が首都から遠ざけられた。
―プラサートトーン王は、地方の統治者が世襲で権力を強大化するのを排すべく、中央から官吏を送りこむ政策をとっており、その一翼を長政が担った。
―プラサートトーン王は、長政と日本人義勇隊をアユタヤから排除しつつ、軍事的要衝地であるリゴールを(武将としての能力の高い)長政に守らせたかった。

・・・などと、様々に分析されています。リゴール行きが、アユタヤ王朝の王位継承問題に絡んでいるのは間違いありませんが、長政は「王位継承内乱に巻き込まれた」とする見方と「王位継承に干渉した」とする見方があり、評価が分かれるところです。

さて、任地リゴールで、長政は旧主を支持する勢力や、南のパッタニー国との闘いに臨み、反乱を治めますが、1630年に毒殺されてしまいます。(パタニーとの戦闘で脚に傷を負った際、家臣により、その傷に薬と見せかけた毒を塗られ、謀殺されたという説もあります。)黒幕はプラサートトーン王だったのか、パタニー軍だったのか、長政のリゴール統治に対する現地の不満分子であったのか――定かではありません。

●山田長政没後の日本人町

長政が亡くなると、同年の内に、アユタヤの日本人町はプラサートトーン王の軍隊による焼き打ちを受けます。日本人居留民は難を避けて海外に逃れますが、そのわずか2年後(1632年)には日本人町が再建され、人口も300~400人程度まで回復しました。しかし、徳川幕府が1633、34、35、36、39年に発令した第1次~5次鎖国令(35年に日本人の海外渡航を禁止)により、アユタヤの日本人町は次第に衰退。18世紀初めには自然消滅したようです。

●長政は実在したのか?

山田長政に関する史料が乏しいことから、研究者の間にはその存在を疑問視する声もあります。しかし、南禅寺の僧、金地院崇伝がものした『異国日記』(1621年)やオランダ東インド会社職員としてアユタヤに駐在したファン・フリートによる『シャム革命史話』(1640年)など信憑性の高い文献もあり、長政が実在していたのは確実と考えられます。

ただし、昭和10年代以降、日本で盛んに喧伝された「英雄長政」像は、当時の政府の「南進政策」推進に沿うもので、多分に虚構が含まれていました。

(石井米雄による「日本人町」「山田長政」の項,『東南アジアを知るシリーズ―タイの事典』同朋舎)

次号では、日本における山田長政のイメージの変遷について、各時代の状況と共に解説します。

齋藤 志緒理

Shiori Saito

PROFILE
津田塾大学 学芸学部 国際関係学科卒。公益財団法人 国際文化会館 企画部を経て、1992年5月~1996年8月 タイ国チュラロンコン大学文学部に留学(タイ・スタディーズ専攻修士号取得)。1997年3月~2013年6月、株式会社インテック・ジャパン(2013年4月、株式会社リンクグローバルソリューションに改称)に勤務。在職中は、海外赴任前研修のプログラム・コーディネーター、タイ語講師を務めたほか、同社WEBサイトの連載記事やメールマガジンの執筆・編集に従事。著書に『海外生活の達人たち-世界40か国の人と暮らし』(国書刊行会)、『WIN-WIN交渉術!-ユーモア英会話でピンチをチャンスに』(ガレス・モンティースとの共著:清流出版)がある。

このコラムニストの記事一覧に戻る

コラムトップに戻る