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COLUMN コラム

チャオプラヤー川に吹く風 タイ人の暮らしと文化

2016.05.02

【チャオプラヤー川に吹く風(37)】「山田長政」考 その5~タイ国での山田長政のイメージ

齋藤 志緒理

ナコンシータマラート市内にある横丁の標識。「PIMOOK」は山田長政の官職名の一部で、横丁名は直訳すると「長政の東屋横丁」となる。同地に伝わる数少ない長政の痕跡の一つ(撮影:土屋了子)

前々号と前号では日本での山田長政像の変遷を追ってきました。連載最後の「その5」では視点をタイ国に移し、山田長政のイメージを考察します。

●タイにおける山田長政像の変遷

「その3」「その4」で引用した土屋了子の論文(「山田長政のイメージと日タイ関係」『アジア太平洋討究』第5号, 2003年3月, p.97-125,早稲田大学アジア太平洋研究センター)は、その終章で、タイ国での山田長政に関する出版物について解題し、各書の時代背景についても分析しています。

タイで最も早く山田長政を紹介したのは1920年に出たサー・アーネスト・サトウの論文“Notes on the intercourse between Japan and Siam in the seventeenth century”です。サトウは山田長政についての一次資料を原文(オランダ語と日本語)から英語に訳して、タイの歴史学界に初めて知らしめ、また、オランダ語の『シャム革命史話』中のオークヤー・セーナーピムックが日本の山田長政と同一人物であると比定するなど、以後の山田長政研究に先鞭をつけました。(※注:サトウの論文が出るまでタイで山田長政が無名だったのは、タイ語の歴史資料には「山田長政」という名前が出てこないことが最も大きな理由と考えられます。)

その後、タイの言論界で、実質的に山田長政への言及が始まったのは1935年、ルアン・ウィチット・ワータカーンの著作『オークヤー・セーナーピムックあるいはチャオプラヤー・ナコン(山田長政)の略歴』からです。同書の前書きでは、日シャム協会のプラヤー会長が「外国人とはいえ、山田はシャムで活躍し、官位名を得た。そして、ついには地方の大都市を治めるほど、タイ国王の信頼を受けた」「日本人が日タイの友好について語る時、いつも山田長政に触れるので、タイ側も山田について知っておくべきである」と記しています。

これについて土屋は、「1930年代の日本との交流において、タイが日本に気を遣った結果、それまで知られていなかった山田長政への関心が生じた」と解説しています。

1970年代には、山田長政を批判する著作が出ました。サン・パッタノータイは『プラサート・トーン王』(1973年)で「山田時代の日本人はシャムの政治に影響力を持ちすぎていた。日本人は好きな人物を王位に据え、国王を殺すこともできた。プラサート・トーン王が日本人のシャム政治への影響力を駆逐したのは王の勝利であった」と述べています。(⇒ソンタム王の死後に起こった王位継承争いでは、山田長政は前王の遺志を酌んで王子擁立派につき、日本人義勇隊とタイ人兵を率いて反対派を鎮圧しました――本連載「その2」参照。しかし、「好きな人物を王位に据え」「国王を殺すこともできた」という解釈には多分に誇張が含まれます。)

また、タンヤー・ポンアーナンは1975年に「日本に対する抵抗――山田から田中まで」(※注:「田中」は田中角栄元首相を指す)の中で、「アユタヤ時代には山田がタイの政治に干渉したので、プラサート・トーン王は日本人を追い出した。日本人はその過去を教訓として、どうすべきかを考えてほしい。もし日本人がこのまま自己本位の利益追求を続ければ、タイ人はかつてそうしたように日本人をタイから追い出すかもしれない」と記しています。

土屋は1970年代のこうした著述について「アユタヤ時代の日本人のシャム国政への影響力を過大評価し、歴史事実を歪めたもの。1970年代当時の日本の経済進出に対するタイ側の強い反発――という状況の中で、山田長政像も反日の道具となった」と説明しています。

1970年代を過ぎると、タイ側の山田長政への関心は急速に冷却化しました。

●ナコンシータマラートでの長政

2001年8月、山田長政が没したタイ国ナコンシータマラート県に「山田長政この地に眠る」と刻まれた石碑が建造されました。この出来事は、タイの反日感情を引き起こす引き金になることが懸念され、日本側、タイ側に少なからず波紋を起こしたといいます。

当該論文の著者、土屋了子氏は筆者のインタビューに応じ、「戦前から戦後にかけて、様々な日本人が、日本の側の勝手な思い入れで、タイの地に山田長政の記念碑を建てたり、建てようとした事実があり、それが日タイ関係に影を落としてきたことは否めない。2001年建造の記念碑についても、残念ながら、すべてのナコンシータマラートの人々が受け入れているわけではないと推定される」と語りました。その根拠としては「1987年に日タイ交流100周年を記念して、同じ場所に同様の記念碑を建てる計画が起こった際、ナコンシータマラート市民が賛成派(市長や商業者)と反対派(歴史家や一般市民)に分かれて激しい論争になり、計画が中止された経緯があった」ことを挙げています。

ところで、同地には古くから伝わる子守唄があり、土屋氏が現地調査した折にも、ナコンシータマラート総合大学南文化センター長のウイチィヤン・ナ・ナコン氏など地元の歴史学者たちが「山田長政が領主だった時代に、領地の人々が苦しめられたという内容」と話していたそうです。

この子守唄の歌詞は、岩城雄次郎が小説『暹羅国武士(シャムのくにのもののふ)盛衰記――真説ヤマダナガマサ』(1996年)で紹介しています。

「子どもよく聞け、かわいい子ども/アユタヤ下りの日本の殿が/わがもの顔で人の国荒らし/子どもは捕まえ/女子(おなご)も若い衆も/町中さらって/思うがままにするんだよ」

●タイにおける山田長政の知名度

山田長政の知名度は、ナコンシータマラートでは比較的高いと推測されますが、タイ人全般についてはどうでしょうか。

「山田長政のタイ国での周知度」を測った調査統計などはなく、データに依拠して論じることはできません。筆者のタイ人の友人(ナコンシータマラート以外の出身、日本留学経験者)複数に尋ねてみると、異口同音に「学校の社会科で習った記憶はあるが、どんな偉業を成した人か覚えていない」との答えが返ってきました。日本への留学経験のある、いわば日本通のタイ人ですらこうした認識なのですから、一般的にはあまり知られていないのが実情といってよいでしょう。

現代のタイの歴史教科書について、山田長政の登場の有無や、登場している場合、どのように著述されているか、刊行年代毎の特徴はあるのか――など、調査研究の価値がありますが、本連載ではそこまでの論究が行えないことをご容赦下さい。

今日、日本では山田長政は “日タイ友好のシンボル”あるいは“架け橋”といった存在になりつつあります。しかし、そうした見方を当然のものとして、一般のタイ人にも期待すれば、肩すかしを食らうかもしれません。タイ人との対話で、山田長政を引き合いに出す日本人は少なくないでしょうが、長政がタイではあまり知られていないということ。知っている場合も、必ずしも好意的なイメージではないかもしれないという可能性を心の隅においておく必要があると思います。

齋藤 志緒理

Shiori Saito

PROFILE
津田塾大学 学芸学部 国際関係学科卒。公益財団法人 国際文化会館 企画部を経て、1992年5月~1996年8月 タイ国チュラロンコン大学文学部に留学(タイ・スタディーズ専攻修士号取得)。1997年3月~2013年6月、株式会社インテック・ジャパン(2013年4月、株式会社リンクグローバルソリューションに改称)に勤務。在職中は、海外赴任前研修のプログラム・コーディネーター、タイ語講師を務めたほか、同社WEBサイトの連載記事やメールマガジンの執筆・編集に従事。著書に『海外生活の達人たち-世界40か国の人と暮らし』(国書刊行会)、『WIN-WIN交渉術!-ユーモア英会話でピンチをチャンスに』(ガレス・モンティースとの共著:清流出版)がある。

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